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2018年1月27日 (土)

福島正則が造った堀川

慶長14年(1609)、徳川家康が名古屋城築城を命令、その翌年2月に着工。ほぼ同時期の慶長15年6月、堀川の開削が始まる。城と町造りが一体化して進められたことがうかがえる。開削の責任者は福島正則。『地図と地形で楽しむ 名古屋歴史散歩』(都市研究会編、洋泉社歴史新書)から以下にメモ。
 
福島正則といえば、加藤清正と並ぶ豊臣秀吉子飼いの武将としてしられています。賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳七本槍」とよばれる活躍を見せて出世し、文禄4年(1595)には尾張24万石で清須城主となっています。関ヶ原合戦では東軍につき先鋒をつとめ、広島藩約50万石の大大名となりました。史実では決して清正に優るとも劣らない英雄です。
 
かつての領地だった名古屋城の築城では、堀川の開削担当奉行(責任者)となりました。
堀川の別名は正則(左衛門太夫)にちなんで「太夫掘」と呼ばれたこともありましたが、清正人気におされて、段々とその功績は忘れられていきました。ようやく最近になって、堀川の産みの親として、正則も再評価される動きも出ています。今は堀川にかかる納屋橋の欄干に福島氏の家紋「中貫十文字」がひっそり刻まれているのです。
また、堀川の河口部にあった貯木場と堀川を結ぶ掘の一部(名古屋市熱田区)が「太夫掘」の名で残っています。
 
・・・秀吉とその軍団の武将は土木工事が得意、というイメージがあるなあ。でもなんで、正則と清正の知名度に大きな差がついてしまったんだろう。酒好きで人情に厚い、いかにも豪傑らしい福島正則。関ヶ原の戦功による大出世の後、豊臣氏の滅亡を見届け、最後は自らもお家取り潰しの憂き目にあう悲劇の人でもある。こんな正則さんに、歴史好きの関心がもっと向けられても良いように思う。

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2018年1月15日 (月)

「チェコのトランプ」は日系人

日本生まれの外国人では、ノーベル賞作家カズオ・イシグロが今一番注目の人物なんだろう。じゃあその次はというと、チェコの日系人政治家トミオ・オカムラかも知れない。反EU、反イスラム主義を打ち出すオカムラは、「チェコのトランプ」と呼ばれているそうだ。昨年、日経新聞(11/18付)記事で知り、「こういう人がいるんだ、へぇ~」みたいな感じだったが、小学館の雑誌「サピオ」最新号にもインタビュー記事が掲載されたので、以下にメモする。
 
トミオ・オカムラ(日本名:岡村富夫)/チェコの第三党「自由と直接民主主義」(SPD)党首。1972年、東京生まれ。5歳でチェコに移住。18歳で日本に渡るも、3年半でチェコに帰国。その後、日本語教室や日本人観光客向けのガイドで成功。2012年に無所属で上院議員選挙に当選。15年にSPD創設。
 
(オカムラ氏の話)
「チェコ人によるチェコ人のための国」。ここに、私の目指す政治がある。われわれ(人口1057万人)は、EU離脱をもっとも強く願う国民だ。
建前上、EUは多様性を求めているが、現実は難民や移民による治安悪化は免れない。さらには、チェコ人から仕事が奪われている。それはおかしい。そんなごく当たり前のことを、私は提言しているに過ぎない。
様々な誤解が広まっているが、SPDが掲げる要の政策が「直接国民投票」だ。国の政策は国民が決める。これこそ、私が理想とする社会であり、チェコ共和国の姿である。国民の85%がEUに不満を抱いてる。これを実現できれば、チェコは、自ずと“チェグジット”(チェコのEU離脱)に向かうだろう。
私には大統領になりたいという野心はない。今はチェコ人のための政策を一歩一歩進めるだけである。
 
・・・経済優先主義により、労働力として移民を受け入れると、国民生活の社会的安全性が損なわれるという不安や反発から、ヨーロッパの「右傾化」現象は強まっているようだ。
島国ニッポンは、移民問題にまともに向き合っているとはいえないが、遠くない将来、人口減少から経済が移民なしには成り立っていかない状況に直面した時、移民との関わりは避けることのできない問題として現れてくるのだろう。そう考えると、ヨーロッパの右傾化問題も他人事とは言えなくなる。

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2018年1月14日 (日)

価格と価値の謎

資本主義社会の中で、日々当たり前のように行われる商品と貨幣の交換。しかし交換が成立する根拠はというと、実はそれほど自明なものではない。NHK-BS1「欲望の資本主義2018」(1月3日放送)、チェコの経済学者トマス・セドラチェクの語る場面では、マルクスの「商品が貨幣になる命がけの跳躍」という言葉が引用されていた。以下にセドラチェクの発言をメモ。
 
◇価格は分かりやすいが、価値というのは謎だ・・・。そもそも「取り引き」というのは不思議だよね。ペンをあなたに売るとする。当然金額の同意が必要だよね。私が10で売りたいのに、あなたが9しか出さないなら成立しない。価格には正確な同意が必要だ。だがこの時、お互いが商品に見いだす価値には差がないといけない。売り手は、ペンの価値が価格より低くないと売らないよね。一方、買い手にとっては、ペンの価値が価格より高いから買うわけだよね。
 
◇お金によって、価格を比べることができるようになる。それは、順序付けることができるということだ。でも価値は・・・例えばトマトよりリンゴが「どれぐらい」好きかを測ることはできない。リンゴの方がトマトより2倍好き?4倍好き?100倍好き?
価値は主観的、価格は客観的だ。人間は「価値と価格の関係」を理解しようと、ずっともがいてきた。このダイナミクスについて、明快に答えるのは・・・困難だ。
 
◇シュンペーターは言い当てていた。「資本主義は批判を受け入れられる唯一のシステムだ」とね。この世界はどうにか機能している。でもそれがなぜ機能しているのか、実はよく分からない。資本主義はある程度までは機能するが、完璧ではないということに、いつも注意を払うべきだ。
 
・・・マルクスは交換に神秘を発見した。現代資本主義社会では、消費と貨幣の交換という「命がけの跳躍」はもちろん、貨幣と貨幣(通貨同士、貨幣と金融商品など)の交換という「命がけの跳躍」も、いつでもどこでも大量に当たり前のように行われている。その中で、我々は儲かった損したと一喜一憂しているわけで、考えてみると不思議だな。

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2018年1月13日 (土)

グローバル化の「反動現象」

NHK-BS1「欲望の資本主義2018」(1月3日放送)、チェコの経済学者トマス・セドラチェクとドイツの哲学者マルクス・ガブリエルの対話の場面から以下にメモ。
 
ガブリエル:皆がポピュリズムと言うが、それは無意味で的外れな診断だ。これはグローバリゼーションに対する抵抗の一種じゃないかな。グローバリゼーションは基本的に経済プロセスだから、起きていることを経済的に説明しなくてはならない。政治的にではなくね。ドイツの人口の12.6%が排外主義に目覚めて投票を決めたわけではない。そうではなく、むしろ地球のあちこちで不公平を目にするようになったためと考えた方が良い。
 
セドラチェク:この状況を表すうまい言葉が見つからないが、もう人々が「いい人」でいられなくなったのかもしれない。「なぜ私が助けなきゃいけない?」とね。「私のことは助けてくれてないのに」ってね。何というか・・・キリスト教文化の反応は、イスラム教の国々の反応よりも極端に経済的なものだった。イスラム教の国々は実際はるかに多くの数の難民を受け入れている。
 
ガブリエル:悪というものを今一度考えてみる必要がありそうだね。どんな組織もどんなシステムも時間を経て自身を維持するためには、他のシステムを排除しなければならない。外部がないシステムは、内部に「異質なもの」を作り出さなければならない。これが悪のダイナミクスだ。確かにグローバリゼーションは、新たな悪を生み出したのかもしれないね。資本主義は国家というよりも経済的な帝国だが、帝国は内部から悪を作り出すのだ。これが「ナショナリズム」などが復活している背景なのだろう。
 
・・・グローバル化の中で強まる「ポピュリズム」「右傾化」「ナショナリズム」とは結局、グローバル化の「反動現象」以上の意味は持たないように見える。グローバル経済のもたらす競争や格差の中で、一部の大金持ちを除く大部分の人々から余裕が失われて、誰もが「いい人」でいることは難しくなり、「自国ファースト」「自分ファースト」になっているということか。

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2018年1月 7日 (日)

「関ヶ原」新説、BS番組で特集

6日のBS-TBS番組「諸説あり!」は「関ヶ原の戦いスペシャル」と題して、関ヶ原合戦(慶長5年9月15日)の新説を特集。戦国軍事史の専門家・乃至政彦氏をスタジオに迎えて、一次史料に基づく新研究をリードする白峰旬(別府大学教授)、高橋陽介(東海古城研究会)の両氏がビデオ出演。要点を以下に。
 
(1)主戦場は関ヶ原ではなかった。戦いは2時間で終わった。
関ヶ原の西、地名「山中」が主戦場。午前10時頃戦闘開始、正午には終了。
根拠①《合戦当時の書状》
慶長五年九月十五日付伊達政宗宛徳川家康書状、慶長五年九月十七日付毛利輝元宛吉川広家書状案などに「山中」の記載がある。
根拠②《古戦場の発掘調査》
昭和50年代に「開戦地」付近を調査。陣地などの遺構は見つからなかった。
根拠③《布陣図(「日本戦史」明治26年参謀本部作成)の信憑性は低い》
 
白峰氏は、「島津家家臣史料(神戸五兵衛覚書)」を中心に合戦を再構成している。当日の早朝、西軍の大谷吉継の兵は関ヶ原の最前線に進出していたが、東軍と小早川秀秋軍に挟撃されて全滅。続いて10時頃から山中地区の西軍と、東軍の戦闘が始まる。東軍の猛攻を受けて、西軍は短時間で総崩れとなった。
 
(2)石田三成陣は笹尾山ではなかった。
根拠①《笹尾山である信憑性は低い》
一次史料に記載がない。笹尾山に陣地の遺構は見つからない。
根拠②《東軍武将・生駒利豊の書状(戦況報告)》
戦いの場は「たうげ」(とうげ)との記載。関ヶ原の西に「藤下」(とうげ)の地名がある。「山中」の東に隣接する地区である。
根拠③《東軍武将・戸田氏鉄の回想録》
石田三成は「自害が岡」に布陣したとの記述がある。これは現在の藤下地区にある自害峰という場所であると推定される(壬申の乱で自害した大友皇子の首が埋められた場所だという)。現地に赴いた高橋氏は、陣地の遺構(削平、切岸、土塁、堀切など)を確認。なお高橋氏は、西軍が大垣城から山中・藤下に陣替えした理由は、松尾山の小早川軍を攻撃するためだと主張している。
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(3)徳川家康陣は桃配山ではなかった。
一次史料に記載された、関ヶ原に進出した東軍勢の中に、徳川軍武将の名前は見当たらない。上記吉川広家書状案には、「南宮山に備えたのは井伊直政・本多忠勝・家康馬廻り」、「東軍の先陣が出陣しその場所に家康が入った」との記述がある。この「家康が入った」場所とは美濃赤坂。西軍の籠もる大垣城の北に位置する。白峰氏によれば、家康の狙いは大垣城攻略だった。一方、大垣城の西にある南宮山には、西軍の毛利勢1万5千が布陣。しかし家康本隊3万の大軍が美濃赤坂に入ると、毛利軍の吉川広家は急遽、東軍と不戦の密約を結んだ。実質的に降参したものと見られる。関ヶ原合戦の前日のことだった。
 
・・・白峰氏と高橋氏の考える合戦の姿に違いはあるものの、いずれにしても従来の通説的ストーリーとは全く異なる姿が提示されている。一次史料中心にどこまで合戦の真の姿に迫れるか、さらなる研究の進展を期待したい。
 
関連するブログ内過去記事
 
(後記)自害峰に行ってみました。〔2018.3.25記事〕
 

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2018年1月 6日 (土)

パンダの繁殖努力が奏功

上野動物園のパンダ、シャンシャンが大人気。かつては絶滅が心配されていたパンダだが、人工授精など繁殖技術の向上もあり、頭数は世界的に回復しつつあるという。以下に5日付日経新聞記事からメモする。

上野動物園で生まれたパンダは5頭目。日本では、同園に初めてパンダが来日した72年以降、繁殖に取り組んできた。国内で生まれたパンダは、これまで21頭。このうち15頭はアドベンチャーワールド(和歌山県白浜町)で生まれ、中国国外の飼育施設では世界一の繁殖成績を誇る。
 
パンダの人工的な繁殖が本格的に始まったのは1980年。中国政府が世界自然保護基金(WWF)と協力し、ジャイアントパンダ保護研究センターを設立した。竹の減少や森林の伐採、捕獲などで、70年代には1000頭まで減少。生育域も分断され、絶滅の恐れが出てきたからだ。
 
パンダの繁殖には3つの難しさがある。1つは発情期の短さだ。パンダの恋の季節は3~5月。そのうち発情するのは2~3日しかない。
もう1つの難しさは交配しても妊娠するとは限らないこと。妊娠期間は90~150日間と幅があるうえ、赤ちゃんは小さく妊娠しているかどうか外見からは判断しづらい。
さらに最も難しいのは出産後だ。出産しても、大きくなるまで育てるのが大変だ。誕生時の体重は100~200グラムと小さいが、1歳には約200倍の約30キログラムまで大きくなる。
 
また双子で出産する確率が約5割と高いが、通常、母親は双子のうちどちらか1頭しか育てない。もう1頭は育てないので、個体数の増加につながらないことが多い。
飼育では双子が生まれた場合、片方の赤ちゃんは人間が育てるようになり育成率が向上。現在は生まれた赤ちゃんの80~90%は生存できるようになった。
 
・・・様々な取り組みにより、今では世界に生育するパンダ頭数は1800頭(14年時点)まで増えたそうだ。
ところで、和歌山のパンダのことは正直知らなかったんだけど、上野ばっかりクローズアップされている(ような気がする)のは、どうなのかなと思った。

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2018年1月 3日 (水)

平成30年の初詣は日泰寺

名古屋で迎えた平成30年のお正月。近年自分は初詣スルーが続いていたけど、環境が変わったせいなのか、何となく初詣に行くかという気持ちになり、東山線沿線にある覚王山日泰寺に出かけてみた。
午前中に行ったら、参拝客は少ない。たくさん人がいるのも疲れを覚えるが、あんまり人がいないのも初詣の雰囲気としては物足りないものだなと思った。

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日泰寺は明治37年(1904)建立の、歴史的には新しいお寺。何でも宗派を超えた仏教寺院とのこと。タイ国から寄贈された仏舎利を境内に収めており、日本とタイから名前は日泰寺。また覚王とは、お釈迦様のことだそうです。

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