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2018年1月 7日 (日)

「関ヶ原」新説、BS番組で特集

6日のBS-TBS番組「諸説あり!」は「関ヶ原の戦いスペシャル」と題して、関ヶ原合戦(慶長5年9月15日)の新説を特集。戦国軍事史の専門家・乃至政彦氏をスタジオに迎えて、一次史料に基づく新研究をリードする白峰旬(別府大学教授)、高橋陽介(東海古城研究会)の両氏がビデオ出演。要点を以下に。
 
(1)主戦場は関ヶ原ではなかった。戦いは2時間で終わった。
関ヶ原の西、地名「山中」が主戦場。午前10時頃戦闘開始、正午には終了。
根拠①《合戦当時の書状》
慶長五年九月十五日付伊達政宗宛徳川家康書状、慶長五年九月十七日付毛利輝元宛吉川広家書状案などに「山中」の記載がある。
根拠②《古戦場の発掘調査》
昭和50年代に「開戦地」付近を調査。陣地などの遺構は見つからなかった。
根拠③《布陣図(「日本戦史」明治26年参謀本部作成)の信憑性は低い》
 
白峰氏は、「島津家家臣史料(神戸五兵衛覚書)」を中心に合戦を再構成している。当日の早朝、西軍の大谷吉継の兵は関ヶ原の最前線に進出していたが、東軍と小早川秀秋軍に挟撃されて全滅。続いて10時頃から山中地区の西軍と、東軍の戦闘が始まる。東軍の猛攻を受けて、西軍は短時間で総崩れとなった。
 
(2)石田三成陣は笹尾山ではなかった。
根拠①《笹尾山である信憑性は低い》
一次史料に記載がない。笹尾山に陣地の遺構は見つからない。
根拠②《東軍武将・生駒利豊の書状(戦況報告)》
戦いの場は「たうげ」(とうげ)との記載。関ヶ原の西に「藤下」(とうげ)の地名がある。「山中」の東に隣接する地区である。
根拠③《東軍武将・戸田氏鉄の回想録》
石田三成は「自害が岡」に布陣したとの記述がある。これは現在の藤下地区にある自害峰という場所であると推定される(壬申の乱で自害した大友皇子の首が埋められた場所だという)。現地に赴いた高橋氏は、陣地の遺構(削平、切岸、土塁、堀切など)を確認。なお高橋氏は、西軍が大垣城から山中・藤下に陣替えした理由は、松尾山の小早川軍を攻撃するためだと主張している。
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(3)徳川家康陣は桃配山ではなかった。
一次史料に記載された、関ヶ原に進出した東軍勢の中に、徳川軍武将の名前は見当たらない。上記吉川広家書状案には、「南宮山に備えたのは井伊直政・本多忠勝・家康馬廻り」、「東軍の先陣が出陣しその場所に家康が入った」との記述がある。この「家康が入った」場所とは美濃赤坂。西軍の籠もる大垣城の北に位置する。白峰氏によれば、家康の狙いは大垣城攻略だった。一方、大垣城の西にある南宮山には、西軍の毛利勢1万5千が布陣。しかし家康本隊3万の大軍が美濃赤坂に入ると、毛利軍の吉川広家は急遽、東軍と不戦の密約を結んだ。実質的に降参したものと見られる。関ヶ原合戦の前日のことだった。
 
・・・白峰氏と高橋氏の考える合戦の姿に違いはあるものの、いずれにしても従来の通説的ストーリーとは全く異なる姿が提示されている。一次史料中心にどこまで合戦の真の姿に迫れるか、さらなる研究の進展を期待したい。
 
関連するブログ内過去記事
 
(後記)自害峰に行ってみました。〔2018.3.25記事〕
 

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