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2017年9月17日 (日)

関ヶ原合戦のリアル(その2)

石田方本隊は大垣城を出て関ヶ原へ向かう。しかし徳川3万の軍勢到着に怖じ気づいた毛利勢が、早々と家康に「降伏」していたことは、石田三成にとって大いなる誤算だった。雑誌『歴史群像』10月号、白峰旬先生寄稿「関ヶ原合戦の真実」からのメモを続ける。
 
一方、美濃口の石田方本隊、すなわち石田三成ら大垣籠城衆にとっても、すぐ北に現れた大軍は脅威であった。
14日の夜、戦況は大きく動き出した。石田方本隊が突如大垣城を出て「外曲輪」(そとぐるわ)を焼き払い、関ヶ原方面へ移動を開始したのである。
 
伊達政宗は石田方の転進について「大垣城への『助衆』(南宮山の毛利勢)に対して合戦を仕掛けるため、家康が14日に赤坂近辺へ陣を進めたところ、大垣城に籠城していた衆が夜陰に紛れて(大垣城を出て転進し)美濃の『山中』というところへ打ち返して陣取りをした」と家臣に説明している。
この「山中」とは関ヶ原盆地の南西、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町山中一帯を指す地名である。
 
14日時点の家康の作戦は、福島正則・池田輝政らの家康方先手勢が大垣城の攻囲を続けつつ、家康自身(徳川本隊)が大垣城の後詰で来援した南宮山の毛利勢を撃破するというものである。その点を考慮して石田方の意図を考える必要がある。
山中に布陣した石田方本隊は、家康が南宮山の毛利勢に対して攻撃を仕掛ければ、その背後もしくは側面に回り込み、徳川勢を南宮山の毛利勢と挟撃するつもりだったのではないだろうか。
 
ところが、そこに予想外の事態が起きる。土壇場で吉川広家が家康に対して「降伏」に近い形で攻撃中止を取り付けたのである。当面、南宮山の毛利勢との戦闘を回避した家康は、大垣城の石田本隊が関ヶ原方面へ転進したという報に接すると、石田方本隊の捕捉・撃滅に作戦を変更、大垣城攻囲中の先手勢も含めた家康方主力を関ヶ原方面へ向かわせたのだ。南宮山の毛利勢がすでに家康方に「降伏」しているなど考えもしていない三成らにとって、家康方主力が関ヶ原に進出してきたのは想定外の事態であったに違いない。
 
・・・石田方が大垣城を出た理由は、通説では西進する気配を見せた家康方を関ヶ原で迎え撃つため。なのだが、白峰先生の説によれば、家康の南宮山(毛利)攻めに備えた動きということになる。

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