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2017年9月10日 (日)

ルドルフ一世の志

ハプスブルク王朝の「始祖」として後世に記憶される、ドイツ王ルドルフ一世(1218-1291)だが、当人の意識としては、皇帝フリードリヒ二世(1194-1250)の後継者たらんとしていたという。『ハプスブルク帝国』(岩﨑周一・著、講談社現代新書)からメモする。
 
従来、ルードルフ一世のドイツ王としての活動に対する評価は低かった。しかし今日では、ルードルフがシュタウフェン朝、とりわけ皇帝フリードリヒ二世の後継者たることを自任し、帝国の再建に尽力したことが明らかにされている。
 
ルードルフ一世は、「巡幸王権」のスタイルを踏襲した。これは、特定の首都をおくことなく各地を王が移動し、諸侯・貴族・都市などの諸勢力と個別に関係を取り結びながら統治するもので、中世ヨーロッパ王権の基本的な統治スタイルである。ルードルフはこうして各地を巡り、権利関係を整理して「大空位時代」に失われた帝国領の回復に努め、王権を強化した。
 
ルードルフは歴代のドイツ王が葬られている大聖堂がそびえるシュパイアーで最期を迎えることを望み、シュタウフェン家のドイツ王フィリップの棺の隣に自身の棺を安置すること等を遺言した後、73歳でその生涯を閉じた。死を悟ってからのこの一連の行動は、ルードルフが正統なるシュタウフェン朝の後継者であることをいかに強く意識していたかをよく示している。
 
ルードルフは、かつてのシュタウフェン朝の地位にハプスブルク家を引き上げることこそが神意であると信じ、その生涯を送ったのであった。
 
・・・ルドルフのドイツ王選出の経緯については、フリードリヒ二世亡き後、皇帝の「大空位時代」が続いたドイツにおいて、選帝侯が自分たちの御しやすい皇帝として選んだ結果であると通説的に語られてきたのだが、その見方も修正されつつあるという。つまり、決して弱小貧乏伯ではなく、経歴と手腕から見て、充分王に相応しい人物として選ばれた、ということである。
またそれ以上に興味深く感じるのは、ハプスブルク王朝の始祖がフリードリヒ二世をリスペクトしていたという「つながり」である。おそらくルドルフにも、フリードリヒ二世は偉大な君主として強く記憶されていたのだろう。
 

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