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2017年9月16日 (土)

関ヶ原合戦のリアル(その1)

主に軍記物をベースに組み立てられた関ヶ原合戦の「通説」に対して、一次史料による見直しを進めている白峰旬先生。雑誌『歴史群像』10月号への寄稿「関ヶ原合戦の真実」の中で、合戦の新たな姿を提示している。まず決戦当日(1600年9月15日)直前の、家康方と毛利勢の動きについてメモする。
 
東海道を西上していた家康率いる徳川本隊は9月11日に清洲へ着陣した。
この時点での家康の具体的な作戦については、関ヶ原合戦後の9月26日頃に書かれたと推定される伊達政宗の書状に詳しい。このなかで政宗は、家康方の作戦について、「(石田方本隊が籠もる)大垣城への押さえに以前から岐阜表に陣取りをしている衆(福島正則・池田輝政など)を差し向け、南宮山の毛利勢は家康自身(徳川本隊)が討ち果たすつもりである」と述べている。
 
毛利勢の撃破という明確な意図の下、家康は美濃へ軍を進め、13日には岐阜へ、翌14日、すなわち決戦の前日には、大垣の北に位置する赤坂へ進出した。この家康の着陣が石田方に大きな動揺をもたらすことになる。
 
まずは毛利勢である。家康方先手勢に攻囲された大垣城の救援のため、ひとまず南宮山に布陣したが、家康率いる徳川の大軍の出現という想定外の危機に陥る。その兵力差は歴然で、正面から対戦するのは圧倒的に不利な状況であった。そのため、家康との決戦を回避しようと動いたのが吉川広家である。
 
通説では、かねてより家康方と内通していた広家が9月14日に起請文を提出して毛利勢の合戦不参加を申し入れ、15日の合戦では広家のサボタージュ行為により、毛利勢は参戦できなかったとされている。
しかし、実際のところ、広家が行ったのは南宮山の毛利勢への攻撃中止を求める工作に過ぎない。端的に言えば、家康直率の徳川本隊の攻撃を恐れて家康に「命乞い」をしたのであり、とても対等な立場で交渉したと言えるものではなかった。
 
・・・南宮山は大垣城の西、中山道の垂井の南に位置する。さらに垂井から西に進むと関ヶ原である。家康は自ら徳川の大軍3万を率いて、南宮山に布陣した毛利勢を攻める予定だった。この「家康の後詰決戦構想」は、白峰先生が上記寄稿で初めて示したとのことである。

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