« 徳川宗春の功罪 | トップページ | 山名宗全の「クーデター」 »

2017年7月17日 (月)

リベラリズムと「全体性なき全体」

『新潮』8月号掲載「特別鼎談 浅田彰+東浩紀+千葉雅也 ポスト・トゥルース時代の現代思想」、リベラリズムについての東の発言をメモしてみる。
 
アメリカでは、リベラリズムの問題がジョン・ロールズの『正義論』で頂点に達するわけですね。しかしロールズの『正義論』が出たあとに、ロバート・ノージックとマイケル・サンデルから別々の形で批判が提出される。リベラリズムというものが、あそこでリバタリアニズムとコミュニタリアニズムに枝分かれするわけです。
現代におけるグローバリズムとナショナリズムの対立は、70年代から80年代にかけてのリベラリズムの分裂によってすでに政治思想的には表現されていたと言えるのであって、そこで普遍的な人類というものがなくなり、個人と共同体の問題へと分かれたんですね。
 
結局、何が問題なのかと言うと、もともとカントまで遡ったときのリベラリズムのプロジェクトは、個人が社会に出る、社会が国家をつくる、そして国家のあと人類まで至るという「上昇」の秩序の連鎖で考えられていた。ヘーゲルの弁証法がその完成形です。けれど、現実にはわれわれは国家まで到達しても、その次にある人類というレヴェルにまでは行けないんですね。なぜかというと、これは基本的にカール・シュミットの分析が正しくて、要は、国家は「敵」がいるからまとまれるのだということ。
 
われわれはネーション-ステートまでは自分の想像力を拡大できるけれども、人類までは行けない。なぜならば人類には敵がいないからです。こうした限界が見えたのが、70年代だったと思います。それが政治思想的には、リベラリズムがコミュニタリアニズムとリバタリアニズムに分裂するという形で表れ、現実ではナショナリズムとグローバリズムの分裂という形で出てきている。
 
ポストモダンの思想は全体性ではない全体性という概念についてやたらと語ってきた。ちょっと位相が変わった「全体ではない全体」として人類というものを捉え直す必要があるんではないか。個人が家族に拡張され、家族が村落共同体に拡張され、それが国家に拡張される、そこまではいいけれど、それと同じ形では、国家を人類まで拡張することはできないんです。国家から人類への拡張には別のルートを作らなきゃいけない。だから、ぼくは「観光客の哲学」というものを考え、そのプロセスを観光客や郵便という言葉で呼んでいる。
 
・・・やっぱり、宇宙人が侵略してこないと、人類は一つにまとまれないですかね。(苦笑)
 
さて東の思考はさらに「偶然性に開かれた実存哲学」や、「偶然性をベースにした連帯」の原理を模索しているという。このほか浅田がアーレントを語る中で述べた「全体性なき共同性」、千葉の「有限性」の問題など、鼎談において提出された様々な概念について具体的に考えてみることにより、リベラリズムを改めてリアルなものに仕立て直す試みが準備されるのであろう。

|

« 徳川宗春の功罪 | トップページ | 山名宗全の「クーデター」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/174032/71156514

この記事へのトラックバック一覧です: リベラリズムと「全体性なき全体」:

« 徳川宗春の功罪 | トップページ | 山名宗全の「クーデター」 »