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2017年7月30日 (日)

山名宗全の「クーデター」

昨日29日、ベストセラー『応仁の乱』(中公新書)の著者、呉座勇一先生の講義を聴きに行った(於:京都駅前の「メルパルク京都」)。
 
呉座先生が応仁の乱に係わるテーマとして「足軽」の話をすると、余りウケないとか。で、多くの人の関心が向くのは「日野富子・悪女論」。応仁の乱が起きたのは、室町幕府八代将軍足利義政の妻である日野富子の振る舞いが大きく影響している、という見方は正しいのか。当日の話もこの辺が中心だった。
 
結論的に言えば、足利将軍の後継者問題と、有力守護大名の勢力争いを結びつけて応仁の乱の要因とする理解、つまり義視(義政の弟)を支援する細川勝元VS義尚(義政の子)の母である日野富子が頼った山名宗全という図式は、事実を映したものとは言い難いということだ。
 
まず以下のような事情がある。
足利義視の妻は日野富子の妹である。(富子と義視は義理の姉弟)
細川勝元の妻は山名宗全の養女である。(勝元と宗全は婿と舅の関係)
山名宗全は次期将軍候補である足利義視に早くから接近していた。
という状況から、各人の関係は悪いものではなく、将軍職の継承についても足利義政→義視→義尚の順番はほぼ既定路線として了解されていたという。
 
むしろ義尚の養育係である伊勢貞親(義政の側近)が、義視の排除を義政に働きかけて、これに山名宗全、細川勝元が強く反発。逆に貞親ら側近たちが失脚する事態となった(文正の政変)。政変後も足利義政は将軍職に止まり、これを細川勝元と管領の畠山政長が支える政権の形となったのだが、この細川派優位の体制に宗全は不満を感じていた。
 
そこで宗全は巻き返しを図る。文正元年(1466)年末から翌年正月にかけて、畠山政長のライバル畠山義就に上洛を呼びかけると共に、義政に働きかけて、畠山家の当主を政長から義就に、さらに管領も政長から斯波義廉(宗全の娘婿)に代えることに成功。政権の中枢を山名派で占める宗全の「クーデター」である。畠山政長は上御霊社に陣を敷き抵抗の姿勢を示したが、畠山義就軍に攻められて京都から撤退(御霊合戦)。
 
もちろん細川勝元も黙っていない。同じ年(1467)、改元後の応仁元年5月、細川派が反撃を開始して、以降10年以上に及ぶ戦乱が始まる。
 
というわけで、将軍後継「問題」は乱の主要因ではないし、日野富子がその中心にいたわけでもない、というお話。
 
呉座先生は8月は静岡、浜松、東京で話をする予定(いずれもカルチャーセンターの講座)。自分も浜松にまた話を聞きに行くつもり。別に呉座先生の追っかけをやってるわけではないが(苦笑)、とりあえず今年は「応仁の乱の年」だなと思って、この「ブーム」に付き合うって感じ。

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2017年7月17日 (月)

リベラリズムと「全体性なき全体」

『新潮』8月号掲載「特別鼎談 浅田彰+東浩紀+千葉雅也 ポスト・トゥルース時代の現代思想」、リベラリズムについての東の発言をメモしてみる。
 
アメリカでは、リベラリズムの問題がジョン・ロールズの『正義論』で頂点に達するわけですね。しかしロールズの『正義論』が出たあとに、ロバート・ノージックとマイケル・サンデルから別々の形で批判が提出される。リベラリズムというものが、あそこでリバタリアニズムとコミュニタリアニズムに枝分かれするわけです。
現代におけるグローバリズムとナショナリズムの対立は、70年代から80年代にかけてのリベラリズムの分裂によってすでに政治思想的には表現されていたと言えるのであって、そこで普遍的な人類というものがなくなり、個人と共同体の問題へと分かれたんですね。
 
結局、何が問題なのかと言うと、もともとカントまで遡ったときのリベラリズムのプロジェクトは、個人が社会に出る、社会が国家をつくる、そして国家のあと人類まで至るという「上昇」の秩序の連鎖で考えられていた。ヘーゲルの弁証法がその完成形です。けれど、現実にはわれわれは国家まで到達しても、その次にある人類というレヴェルにまでは行けないんですね。なぜかというと、これは基本的にカール・シュミットの分析が正しくて、要は、国家は「敵」がいるからまとまれるのだということ。
 
われわれはネーション-ステートまでは自分の想像力を拡大できるけれども、人類までは行けない。なぜならば人類には敵がいないからです。こうした限界が見えたのが、70年代だったと思います。それが政治思想的には、リベラリズムがコミュニタリアニズムとリバタリアニズムに分裂するという形で表れ、現実ではナショナリズムとグローバリズムの分裂という形で出てきている。
 
ポストモダンの思想は全体性ではない全体性という概念についてやたらと語ってきた。ちょっと位相が変わった「全体ではない全体」として人類というものを捉え直す必要があるんではないか。個人が家族に拡張され、家族が村落共同体に拡張され、それが国家に拡張される、そこまではいいけれど、それと同じ形では、国家を人類まで拡張することはできないんです。国家から人類への拡張には別のルートを作らなきゃいけない。だから、ぼくは「観光客の哲学」というものを考え、そのプロセスを観光客や郵便という言葉で呼んでいる。
 
・・・やっぱり、宇宙人が侵略してこないと、人類は一つにまとまれないですかね。(苦笑)
 
さて東の思考はさらに「偶然性に開かれた実存哲学」や、「偶然性をベースにした連帯」の原理を模索しているという。このほか浅田がアーレントを語る中で述べた「全体性なき共同性」、千葉の「有限性」の問題など、鼎談において提出された様々な概念について具体的に考えてみることにより、リベラリズムを改めてリアルなものに仕立て直す試みが準備されるのであろう。

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2017年7月16日 (日)

徳川宗春の功罪

18世紀前半徳川八代将軍吉宗の時代、幕府の倹約政策に異を唱えて消費拡大政策を進めた尾張藩主徳川宗春。8年の治世の後、幕府から蟄居謹慎を命じられて失意のうちに25年間を過ごし69歳で死去。「反逆者」宗春の影響は今も名古屋に残るというのは、名古屋出身の作家、清水義範。『日本の異界 名古屋』(ベスト新書)からメモ。
 
この殿様は名古屋に対して、パッと遊べ、という号令をかけたのだ。名古屋には全国各地から人が集まってきた。江戸や大坂に負けぬ賑わいだから、自然に人口も増えるのだ。宗春の治世中に、名古屋の人口は40パーセント増えたという。
宗春によって名古屋は日本中が注目するほどの繁栄を見せたのだ。
しかし、その繁栄は長くは続かない。農業が経済の基盤だった時代に、流通ばかり活気づかせても、それは虚の繁栄なのだ。
もちろん、宗春もそのことはよく承知していた。一方で活性化政策を取りながら、もう一方では産業振興策も積極的に行った。
ところが、宗春のこういう努力はあまり知られていない。遊びを奨励したような面ばかりが伝わるのだ。目立つのはそっちだからやむを得ないのだが。
(産業振興策の成果が出るより前に)名古屋経済は借金まみれになってしまった。宗春の誤算だったと言うべきであろう。
 
宗春は名古屋人のあり方にも大きな影響を残している。そしてその影響には直接の影響と裏返しの影響の二種類があるのだ。
直接の影響としては、名古屋人の生活文化の豊かさがあげられる。(観劇を楽しむ、茶の湯など習い事に熱心等々)日々の生活を大いに楽しむというところに、宗春の時代の大いに楽しめ、という賑わいの残り香があるのだと思う。
そして、宗春の裏返しの影響とはこういうことだ。
名古屋の人には、宗春の時代に大借金を抱えた苦しみが骨身にしみついてしまったのだ。あんなことはもう二度とあってはならぬと、心の底から反省した。つまり、宗春が反面教師となっているのだ。
宗春は今の名古屋人の一部を作っているとも言えるのかもしれない。
 
・・・転勤で名古屋にいる自分は、名古屋人とのプライベートな付き合いはないので、名古屋人のメンタリティの細かいところまでは分からないけど、まあ大体のイメージとしては生活文化の豊かさよりも、堅実な部分、つまり宗春の反動の影響の方が大きいと見えるのだが、どうなんでしょ?

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2017年7月15日 (土)

名古屋は都会とはいえない

名古屋は都会とはいえない、ということを名古屋出身の作家、清水義範が『日本の異界 名古屋』(ベスト新書)の中で語っているので、以下にメモする。
 
名古屋市の人口は229万6千人で、日本で4番目の大都市だ。人口200万人以上なのだもの、文句のつけようがない大都市である。
なのに、どうしたわけか名古屋には都会性が感じられないことを、くやしいが私も認めるのである。
都会的であるということは、あらゆる価値観を受け入れられて、それを認めるということである。そういう間口の広さが、都会の特徴なのだ。
なのに、名古屋はほかに対して扉が閉ざされており、自分たちだけで世界を作って他者を受け入れようとしない。仲間だけで生きているのでは都会人だとは言えないわけである。
都会性はそこに住む人の意識の問題なのである。ツレが店を紹介してくれたで安く買えて得したわ、の世界にどっぷりとつかっている限り、名古屋は都会にはならない。
名古屋に対して、大いなる田舎、という悪口を投げかける人がいる。それは名古屋人の意識のあり方のことを言っているのである。そして、名古屋人は確かに大いなる田舎的な意識で生きているのだ。
私はもう、それでいいじゃないかと考えている。逆に、そのどこが悪いのだ、と言い返したくなるほどだ。
名古屋人は、洗練されていないのである。とにかく功利的で、得か損かを第一に考え、得しちゃうことを何より喜ぶという人たちが、洗練されているはずがないのである。
ただ、洗練はされていないが、名古屋には生きやすさがある。洗練されているということには、やせ我慢も必要なのである。実利には背を向けて、損なほうをさらりと取るといった、形の上の格好よさを選ぶことも洗練のうちである。
名古屋の人にそういう生き方はできない。できないと言うより、その反対の生き方が名古屋的なのだ。
そしてそれは、未来に向けても同じであろう。洗練よりも実利を取るのだ。そして、このほうが得だで嬉しいがね、と生きていくのである。
いいではないか。名古屋は大都市なのに、思想が都市化しないのだ。そのどこに不都合があろうか、というところである。
これから先も名古屋は田舎っぽいままで突き進んでいくのであり、それでいいのである。
人口200万人以上の田舎とは、他に類を見ないすごいことだとも言えるのである。
 
・・・都会の洗練には、名古屋は殆ど無縁である。最近は名駅周辺はお洒落になってるけど、これからも名古屋の街が全体としてお洒落になることはないだろう。というか、お洒落になったら名古屋じゃない、という感じもする。
 
ところで、「やせ我慢」とは、江戸っ子にとって最も肝心なエートスである。確かに何の得にもならないんだけどね。なので損得最優先の名古屋人の生き方は、ちょっとだけ羨ましいような。でもやっぱり抵抗感もあるというか、少々余裕のない感じもするかな。

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2017年7月 9日 (日)

都民ファーストの勝利に思う

今日の中京テレビ「そこまで言って委員会」で、都議選の自民党惨敗の原因について、司会の辛坊治郎が叫んでいた。「選挙結果について東京でやってる分析は全部間違ってる。森友も加計も稲田も豊田も全く関係ない。都民ファーストという自民党に代わる受け皿にみんなが投票しただけなんだ。それはかつて大阪維新の会がやったことが東京で起きただけなんだ」と。同感する。

この番組は東京では放送してない。自分は春から名古屋にいるので、この番組を見ているわけだが、もし転勤しないで東京にいて選挙の日を迎えていたら、候補者の情報を眺めながら、もう自民党のオヤジ政治も嫌だし、今回は若い人や女性に入れとくか、何か素人くさいし少々頼りないけどな・・・と思いつつ、都民ファーストに投票したのではないかと思う。

国政の問題、森友学園や加計学園が地方選の投票行動を大きく左右するとは思えないし、稲田大臣はまたかという感じだし、 豊田議員に至っては言及するのもバカバカしいというか。これらの問題が自民党惨敗の要因とか言われると苦笑するばかりだ。

結局自分のような消去法的な「今回はこっちでいいや」という態度の人も含めた票の積み重ねが、結果的に都民ファーストの大勝につながったという印象。だからとにかく急ごしらえながら、「受け皿」を作って用意した小池都知事の作戦勝ちであり、その実行力はやはり大したもんだとあらためて感じる。

ちらほら指摘されてるように、都民ファースト圧勝は、フランスのマクロン大統領率いる政党の大勝利と、確かによく似ている。その意味するところは、既成政党への不信感はどうしようもなく強いということ。そしてまた、とにかく既成政党ではない新しい「受け皿」が出てくれば、とりあえず任せてみる、という度量も先進国有権者にはある、ということなんだろうと思う。

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