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2017年6月30日 (金)

関ヶ原は「徳川VS豊臣」ではない

歴史REAL 関ヶ原』(洋泉社MOOK)掲載のインタビュー記事「関ヶ原合戦とはなんだったのか」(矢部健太郎・国学院大学教授)から以下にメモ。

豊臣秀吉の死後に起きた石田三成襲撃事件などの真相を含め、広い意味での関ヶ原合戦とその周辺状況が専門の研究者によって研究されるようになったのは、じつは近年のことです。笠谷和比古先生の一連の研究が、非常に画期的だったと思います。

最近、「徳川史観」ということばがよく聞かれます。徳川家を顕彰し、その歴史を正当化する目的で歴史を描くことを指しています。われわれが知っている関ヶ原合戦のイメージも、どうもこの「徳川史観」によって脚色され、あるいは改変されているのではないか。そう考える流れが近年の研究動向といえるでしょう。

それまで関ヶ原合戦といえば、江戸幕府を開いた徳川家康の「栄光の記録」として語られてきたわけです。徳川が豊臣との戦いに勝利した、と。しかし、笠谷先生の研究以降、この戦いの本質は豊臣政権内部での勢力争いであったということが、すでに定説化しています。

この戦いで天下の形勢が一気に決すると、当事者を含む当時の人びとが本当に認識していたかどうか。それはかなり怪しいと私は思います。
われわれが関ヶ原合戦を「天下分け目」の戦いと認識しているのは、(「徳川史観」の)バイアスによる部分が大きいのかもしれません。

つまり、関ヶ原合戦の本質とは、「実力勝負の世界で、どちらか勝った方が天下を取る」といったものではなく、豊臣政権を構成する大名間の争いがあり、徳川方と反徳川方の主導権争いが高じて、戦いにおよんだとみなすべきだと思います。

・・・笠谷先生の『関ヶ原合戦』(講談社学術文庫)を、ちゃんと読まないといかんな。とにかく、関ヶ原合戦は「徳川VS豊臣」「天下分け目」の決戦ではないんだよ、ということで憶えておきましょう。

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2017年6月28日 (水)

将棋オールドファンの独り言

プロデビューから連戦連勝の将棋棋士藤井聡太四段。今週月曜日の対局で29連勝の新記録を達成。本日付日経新聞コラム春秋も、天才中学生棋士の活躍に寄せて書かれている。その一部を以下にメモする。
 
新星への期待は膨らむが、元神童が居並ぶ棋界である。作家、山口瞳さんが畏怖の念を込め「お化け屋敷」と称した天才、鬼才の集団は新参者にそう優しくなかろう。そこにまた伝説が生まれる。目が離せぬゆえんだ。

振り返れば、酒に溺れた棋士や病で早世した棋士、演歌を大ヒットさせた棋士など人生行路も棋風なみに様々である。それがまたファンを引き付ける。さて藤井四段。どんな勝負師に育ってくれるか。


・・・将棋名人といえば中原誠をイメージする自分、つまりオールドファンから見ると、山口瞳(故人)の言葉も引用されてるし、たぶんコラム氏は自分と年齢が近い人かな、と思う。だとしたら、文中の演歌棋士はもちろん内藤先生(國雄九段)だし、酒に溺れたのは多芸多才の芹沢博文(故人)、早世したのは打倒大山を掲げた山田道美(36歳で病死)、という感じがする。(若いファンならば、夭折棋士というと村山聖になるんだろうな)

今週初め、藤井四段の話題の影に隠れて?オールドファンには寂しいニュース、大内延介九段の死去が伝えられた。振り飛車穴熊を一つの戦法として完成させた棋士で、今や穴熊は居飛車振り飛車を問わず常に意識される戦法となっていることを思えば、その功績は非常に大なるものがあると思う。そして大内といえば、昭和50年中原名人に挑戦した名人戦の激闘が記憶に残る。最終第7局の終盤、先手大内の7一角が緩手。4五歩と指していれば必勝だったところ、後手中原の入玉から持将棋引き分けに終わり、指し直し局で大内はいいところなく敗れた。勝負の残酷さを感じさせる結末ではあったけれど、その一方で正直、名人は選ばれし人しかなれない、ということも感じたものだ。

ところで、今週本屋に行ってびっくりしたのは、雑誌「ユリイカ」の最新号の特集が「加藤一二三」だったことだ。ユリイカって詩とか文学の雑誌やろ?それがまた何で「ひふみん」なんやねん。しかしタレント「ひふみん」というのも、見てると何か居心地の悪い気分になるね、かつてその著書「振り飛車破り」で勉強させてもらったオールドファンとしては。

まあとにかく、思えば昔の棋士はキャラが立っていたということか。それでも当時(およそ40年前)から、棋士の「サラリーマン」化は言われていたと思う。今では学者タイプやオタクタイプの棋士も珍しくなくなった。棋士が勝負師だった時代は遠くなりにけり、だ。今を生きる棋士である藤井君も勝負師というよりは、AI機能を取り込んだ新人類のように見えるしね。

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2017年6月27日 (火)

グローバリズムにリベラルは無力

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智の共著、イースト新書)は、「若者論」や「リベラル」などを切り口に、おおよそ90年代以降の人文社会分野の動きを踏まえながら、社会運動や社会批評の現状を語るという内容。グローバリズムに対するリベラル思考の破綻について、以下に栗原氏、北田氏の発言からメモする。
 
栗原:左派リベラルの論理では、グローバリズムというのは帝国による周辺国からの搾取にほかならないから、辺境国が耐えられなくなって破綻するというストーリーが描かれてきました。でもトランプ現象やブレグジットで明らかになったのは、グローバリズムに耐えられなくなったのは、途上国ではなくて、先進国の中間層だったということですよね。途上国はグローバリゼーションの恩恵を受けて潤っている。そこでも左派のロジックは破綻してしまっているんだけど、その辺に対する弁明も聞いたことがない。
 
北田:なんかグローバリズムの捉え方が、かつての帝国主義論と同じような枠組みのままで、どこかに搾取されているところがなきゃいけないことになっているけれど、実態は、かつての第三世界搾取論で搾取されていたといわれているようなところが、経済発展を遂げている。どこが疲れているかというと、実は先進国が疲れている。搾取を見出そうとすると、場合によっては搾取されているのはアメリカとか日本とかになってしまう。
 
・・・グローバリズムに対するリベラルのスタンスは無効、無力であるというほかない。グローバル経済への抵抗運動という意味では、おそらくリベラルに変わるものとして、というのも変な感じだが、ポピュリズムやナショナリズムの動きが目立つようになっている面もあるのかなと。

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2017年6月26日 (月)

社会学は経済学に勝てない

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智の共著、イースト新書)は、「若者論」や「リベラル」などを切り口に、おおよそ90年代以降の人文社会分野の動きを踏まえながら、社会運動や社会批評の現状を語るという内容。北田氏は特に社会学に経済学的思考が欠けていることに危機感を覚えているようだ。以下に北田氏発言からメモ。
 
60年代以降(の社会学)は、制度の比較分析で公平性、公正性が担保されているかどうかを実証的に検討する学問になった。
それはそれでよいとして、その結果、不況がもたらす社会問題等の解決については、経済学に太刀打ちができなくなってしまった。

昔だったら社会問題をどうやったら解決できるのかという、社会統合とか社会秩序の維持を目指していく学問が社会学でした。それをヘタレ呼ばわりしてきたマルクス主義者との闘いがずっとあったわけです。
今はもう敵がいないので、自分自身が文化的な西欧マルクス主義的になってきてしまっている。

少なくとも制度批判だけでは制度はよくならない。これだけの規模を持つ社会をコントロールしていく時に、経済学的な思考というのを看過していいはずがない。
 
・・・自分がいつも実感として思うのは、80年代後半のバブル、90年代のバブル崩壊の時代以降、経済的なものの見方が世界認識の基本的な方法になった、ということだ。今や経済学に比べて社会学の劣勢は覆いがたい。とりあえず社会学者も日経新聞を読んでもらいたいなと。

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2017年6月25日 (日)

関ヶ原合戦、西軍壊滅の実相

昨日今日の二日間、関ケ原町でイベント「関ケ原武将シリーズ第3弾大谷吉継」が開催された。関ケ原ふれあいセンター及びふれあい広場を中心エリアとして、ステージ・パフォーマンス、トークショー、資料展示、グルメブース、古戦場ウォーキングなどの企画を展開。小生は、本日午後1時からの歴史トークショー「新説関ケ原の戦い」に足を運んだ。

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歴史研究者の小和田泰経氏と高橋陽介氏、あと司会者の女性とナビゲーター(自ら「歴史くん」と称してた知らない芸人)の4名でトークが進行。

高橋氏は著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を2年前に自費出版。何でも「在庫が余っている」とかで、通常販売価格850円のところ本日は「処分価格」500円で会場内のグッズ販売コーナーに置いていると、自虐ネタよろしくおっしゃる。せっかくなのでトークショー終了後、購入。80ページ超の小冊子の体裁。学問的な歴史研究ですから内容は史料解釈中心で、全体の半分程度が吉川広家書状の分析。原文、意訳、解釈と叙述が進められているが、とりあえず解釈の部分をさーっと読んでみたら、非常に興味深い。とりあえず結論的な関ヶ原合戦の姿を以下に引用する。
 
「西軍の宇喜多・島津・小西・石田勢は9月14日夜、小早川の籠る松尾山を攻めに向かった。松尾山を包囲し、陣所は山中村周辺、陣立ては第一陣宇喜多、第二陣島津、その東に石田。9月15日早朝から戦闘開始。しかし午前10時ごろ予期せぬことに、そこへ東軍の「猛勢」が攻め込んできた。そこで石田は先陣に立って戦う。約2時間の戦闘で、まず大谷吉継が戦死、ついで宇喜多勢、石田勢が壊滅。正午ごろ、西軍敗北。島津は伊勢街道を南へ向かって撤退した。」
 
松尾山を占拠した小早川を最初から敵方と見なして、西軍主力は大垣城から松尾山の麓に移動して布陣したのだが、その背後から東軍本隊に攻め込まれて壊滅した。南宮山に西軍として兵を置いた毛利が動かなかったからこそ、東軍は何の心配もなく中山道を進み西軍の背後を突けたのだろう。そう考えると「裏切り」の罪が重いのは、小早川よりも吉川という感じがする。
 
トークショーの中で、白峰旬先生(『関ヶ原合戦の真実』著者、小早川の裏切りは戦闘開始と同時と主張)の名前も出ていたが、おそらく今後の関ヶ原合戦の研究は白峰、高橋両氏の説を全く無視することはできないと思われる。

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2017年6月23日 (金)

岐阜羽島駅の謎

先日の新幹線の架線事故による運転停止の際、岐阜羽島駅に停車中の新幹線車内で「近くにはコンビニもありません」とのアナウンスが流れたらしくて、これがネット上で話題になったとか。降りたことないけど、確かに岐阜羽島駅って、何にもない感じだよねぇ。何でこんなところに駅があるのか? 本日配信の「乗りものニュース」からメモしてみる。

この岐阜羽島駅は、「政治家の力によって駅ができた」という噂も存在しました。駅前には岐阜羽島駅の誘致に尽力したとされる地元選出の政治家、大野伴睦夫妻の銅像も建っています。

岐阜羽島駅は1964(昭和39)年、東海道新幹線(東京~新大阪)開業時に新横浜、小田原、熱海、静岡、浜松、豊橋、名古屋、米原、京都の各駅とともに設けられた途中駅のひとつです。

実はこの駅、ある役割をもってつくられました。

JR東海の元会長である須田寛さんの著書『東海道新幹線Ⅱ』(JTBパブリッシング)によると、「関ケ原付近の積雪に備えて名古屋、米原の中間に除雪車両の基地、除雪列車(機械)の折返し設備が必要であり、たまたま岐阜県下にも一駅を設ける要請があってそこに駅を併設した」とあります。

また公益財団法人交通協力会『新幹線50年史』によると、「この駅は関ヶ原の急勾配区間を控えていることから、故障車の留置線を2線設置できるように考慮」とあります。

このように、岐阜羽島は関ヶ原の雪や異常時のことも想定しつくられた駅で、東海道新幹線の中間駅としては規模が大きく、4列車までホームに停車可能。大雪や、また今回のような異常時における列車の留置などに対応できます。

・・・乗降客よりも鉄道会社の都合というか、相当テクニカルな理由で作られた駅なのね。

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2017年6月20日 (火)

フェイクニュースの「思想」

世界に拡散するフェイク(偽)ニュース。その背景にあるのは、いかなる思想はたまた感情なのか。本日付日経新聞オピニオン面「偽ニュースどう戦う」から、神学者森本あんり氏のインタビュー記事を以下にメモする。
 
「ポスト真実(Post-truth)」は、客観的な事実よりも感情や個人の信条に訴える方が影響力を持つ社会状況を意味する。まさにフェイクニュースが作る世界、あるいはフェイクニュースを生み出す世界のことだ。
 
フェイクニュースの問題が猛威を振るっている背景には、「物事は見方によって変わる」という、現代社会に特有のリベラルな相対主義があるのだろう。最近の学生は「絶対」や「真理」を信じていない。ポストモダンの哲学もこうした考え方を裏打ちする。
 
フェイクニュース問題が特にアメリカで深刻なのは注目に値する。これにはアメリカに特有の精神的な土壌が絡んでいる。アメリカを貫くプラグマティズム(実用主義)は「何が真実か」という哲学的な議論より「それは実践でうまく機能するか」を重んじるからだ。
 
またアメリカは特殊なキリスト教原理主義が根強い。「神は6日間で天地を創造した」という聖書の言葉を字義通りに受け入れ、進化論を否定する人は国民の4割にも及ぶ。彼らはいったんそう信じれば、いかなる科学的な説明も受け入れない。例えば天地創造の時とされる6000年前よりも古い化石が発見されれば、神が創造の時に化石をそこに置いたと考える。これはポスト真実に共通する態度といえる。
 
フェイクニュースはこうした土壌に、誰もが情報を発信・拡散できるソーシャルメディアというツールを得て増殖した。
 
フェイクニュース問題の底には、自分たちは権力者にだまされているという陰謀論的な感情がある。疎外されていると感じる人にとり、体制側と見なす既存メディアの情報は受け入れられない。実際、大手メディアで活躍する人々は、アメリカでも日本でも一握りのエリートだ。反発には、権威ある人の言うことが正しいわけではないという平等意識がある。
 
・・・こうして見ると、一見アホらしいとも思えるフェイクニュースの「流行」には、意外と複雑な「思想的」背景があるようだ。ポピュリズムと合わせて、結構厄介な事象なのかも。それにしてもこのままいくと、見たいものだけ見る、信じたいものだけ信じる、そんな人ばっかりになるような。それも何だかなぁ~である。

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2017年6月12日 (月)

「貿易問題」=「円買い」ではない

米国トランプ政権が「貿易不均衡」を訴えるわりには、円高が進まない。なぜか・・・日経新聞電子版の本日付発信記事(「貿易摩擦=円高」の誤解)からメモする。
 
なぜ「貿易摩擦=円高」の構図が生じないのか。この解を導くには、この構図が顕在化した95年の円急騰局面を振り返ってみる必要がある。
 
94年6月、円相場が1ドル=100円の節目を突破。95年に入ると、当時の米クリントン政権が日米包括経済協議の自動車・同部品交渉で対日圧力を強め、歩調を合わせるように円高が加速する。95年4月にはブラウン米商務長官(当時)による「ドルが対円で下落しても米政府の日米自動車協議への強い姿勢は変わらない」との発言を受け、一気に当時の最高値79円75銭を記録した。
 
重要なのは円急騰を招いた仕組みだ。当時の円買いを主導したのはヘッジファンドでなく、日本の輸出企業だった。90年代前半、日本の貿易黒字は10兆円を大きく上回り、企業は輸出で得た膨大なドルを円に替える必要に迫られていた。
為替対策が未成熟だった企業は90円や85円といった節目の水準に円買い注文を置く。それを見越してファンドが節目の水準を狙って円買いを仕掛けると、一気に膨大な円買い注文が成立し、円高が加速する仕組みだ。ファンドは円急騰の媒介で、主役は日本の輸出企業だったわけだ。
 
これを現在に当てはめると「貿易摩擦=円急騰」の構図が成り立たないことがよく分かる。
 
2011年3月の東日本大震災で日本のサプライチェーン(部品供給網)が寸断されて以降、日本は貿易赤字に転じた。急激な原油安が生じた16年こそ貿易黒字になったが、90年代前半とは比べものにならない規模にとどまる。トランプ政権が日米の貿易摩擦をあおってファンドが円買いを仕掛けても、主役である輸出企業の円買いは限られ、円高が加速しない。
しかも大震災を機に、生産体制は大きく変わった。日本企業が部品供給網を海外に求めた結果、製造業の海外生産比率は急上昇し、一気に20%を突破。10%にも満たなかった90年代前半と比べ、海外で得たドルを円に戻さず、海外での再投資に振り向けるケースが急増している。
 
過去の経験則を頼りに貿易摩擦が浮上すると、ヘッジファンドや機械取引による短期的な円買いは出てくる。だが中長期的な円相場は需給要因に依拠する面が大きい。「貿易摩擦=円急騰」の構図が現実にならないのは異変でなく、当然のことになりつつある。
 
・・・「貿易摩擦」は、もはや円買い材料にならない。そもそもグローバル経済の構造が出来上がっている現在、個別の国との貿易不均衡を問題視する意味があるとも思えない。トランプ政権はホントに不可解だ。

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2017年6月11日 (日)

元号の豆知識

特例法が成立して、天皇陛下の譲位が可能となり、新しい元号も2019年の1月1日あるいは4月1日から使われる見込みとなった。以下に、今日の日経新聞日曜版記事(改元へ官民始動)から一部をメモしてみる。
 
元号は期限前の古代中国で使い始めた。為政者の交代や政治の心機一転を図る時などに改める(改元)のが特徴で、日本のほか朝鮮半島やベトナムなど東アジアに広がった。
近代化の影響などで、本家の中国でも1912年に滅んだ清朝を最後に使われなくなり、今も維持しているのは日本だけだ。
 
日本の元号は645年の「大化」に始まり、1989年の「平成」まで247を数える。飛鳥時代に一時断絶、南北朝時代などで2つの元号が併存した時期もある。最も長く続いたのは64年の「昭和」。近世以前で最長は室町時代の「応永」で35年。20年以上続いた元号は平成も含め13例しかなく、ほとんどの元号は数年で改元されている。
 
元号に大変革があったのは明治の改元。一人の天皇在位中は一つの元号とする一世一元制と、その元号を諡号(しごう、明治天皇など)とすることが決められた。「明治」の元号は複数案の中から天皇がクジで決めた。
 
1889年の旧皇室典範で天皇が即位後に元号を立て、在世中は改めないことが初めて法制化された。戦後の新皇室典範では元号の条文が削除され法的根拠がなくなったが、1979年に元号法が成立。戦前、元号は天皇が決定する建前だったが、内閣が政令で定めることになった。
「元号は政令で定める」「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」。元号法はこれだけを規定し、同じ年に閣議報告した要領に具体的な手続きを定めた。
 
昭和から平成への改元時に一部修正した要領は①国民の理想としてふさわしいような良い意味を持つ②漢字2文字③書きやすい④読みやすい⑤元号またはおくり名として用いられていない⑥俗用されていない――の6条件を示した。
 
政府は今回、改元の数カ月前に新元号を公表し、周知期間を設ける方針だ。
 
・・・しかし「明治」ってクジで決めたのか(苦笑)。そこに神意の現れを見る、ということかも知れないが。
これで自分も昭和、平成、そして新元号と、3つの元号を経験することになる。何だか結構長生きしてる気分になってくる。

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2017年6月 4日 (日)

エスカレーター問題

10年ぶりの名古屋生活。まずは市営地下鉄東山線に乗ると、ホームドアが出来ているのに気が付く。そしてエスカレーターの周辺には、「歩かないで」と指示する掲示板や張り紙が。それでも、なあんとなく右側が空くことが多い感じで、二列乗りがきっちり実践されているわけでもない。
さて片側空けと二列乗り、どちらが合理的なのか。片側空けは駅ではともかく、デパートなどの商業施設では不合理としか思えない。急いでいる人はまずいないんだから。少し前の日経新聞コラム「春秋」(5/13付)から以下にメモする。
 
さきごろ華々しく開業した「GINZA SIX」は、いま東京で人がいちばん集まる場所だろう。銀座で最大という商業施設だが、その広いフロアも客でぎっしり。ラッシュアワーの雑踏みたいだ。エスカレーターにも鈴なりの人である。みごとに、左側1列で――。
「どうか2列でご利用ください」。従業員が声をからすが、誰も聞く耳を持たない。こんなに混んでいるのだから、どう考えたって2列のほうが効率的だ。なのに、急いでいる人のために片側を空けておくというルールは強固なようである。係員が叫べども叫べども、客は頑として片側空けを崩さない。奇観というべきか。
地域により国により、空けるのが右か左かの違いはあっても、世界に広まったこの風習の成り立ちは定かではないという。ただ、日本で普及したのはさほど昔ではないらしい。1993年の朝日新聞には、英国の例を挙げて片側空けを勧める投書が載っている。これぞ先進国のスマートなマナーとされた時期もあったわけだ。
それも今は昔。エスカレーターを歩くのはそもそも危険だと、鉄道会社などはさかんに呼びかける。
 
・・・日本におけるエスカレーターの片側空けは「自然発生的」だったという、何かの解説を目にしたこともあるけど、自分の記憶ではそうではない。たぶん90年代の前半の前半くらいだったか、テレビニュースで「片側空けが国際ルール」だと、どの局も一斉に流した時期があり、その結果見事にみんなが従ったという覚えがある。いやあ、あの時ほどメディアによるファシズム実現の可能性を感じたことはなかったなあ。大げさに言うと。
まあとにかく、少なくともデパートなど商業施設でのエスカレーターの片側空けは不合理なので止めましょう。と、テレビニュースで訴えるしかないかな。

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