« 応仁の乱は時代の転換点 | トップページ | エスカレーター問題 »

2017年3月30日 (木)

「義とされる」とは

人は信仰によって義とされる、って何のこっちゃと非キリスト教徒は思うわけだが、とりあえず『プロテスタンティズム』(深井智朗・著、中公新書)第3章からメモしよう。
 
キリスト教の救いとは「義とされる」ということである。しかし「義」とは説明の難しい考え方だ。
 
義とは神との関係の正しさのことであり、罪とはこの正しい関係の破壊のことである。
神の教えに反したり、神の存在や恩寵を否定したり、拒否することは罪である。関係が破壊されているからだ。人間が罪人であるのは、自らこの関係を破壊したからである。
この罪の状態では人間は天国に行けないのだから、神との壊れてしまった関係を修復しなければならない。 
しかしルターは、人間の側の努力によって正しい関係を回復することや、自分は義とされたという確信を持つことは不可能だと考えた。
 
ルターが聖書に発見した事実は、神は義を持つだけではなく、それを与えることが可能だということであった。義人とは、神によって義とされた人を指すというのが、ルターが聖書を読み、そこから引き出した結論であった。
 
この神の義を人間が受け取るために、この世に来たのがキリストとしてのイエスである。キリストとしてのイエスは神の子であるから、まさに義を持った存在だ。罪や過ちのないイエスが私たちの罪や過ちを引き取り、その代わりに義を与える。
ルターはこの発見を、「キリストの義と人間の罪が交換される」という、いわば神秘主義的な表現によって説明した。
人間が義とされるのはただこの事実を信じる信仰によるのだということになる。
 
ルターは、神が人間を救うという行為を人間はただ受け取るのであり、神がなすことを信頼するのが信仰だと考えたのである。
 
・・・義とは、神との正しい関係である、と言われればまあ分かるような気もする。けど、義を「持つ」とか、「与える」とか言われると、やっぱりよく分からなくなる。はあ。

|

« 応仁の乱は時代の転換点 | トップページ | エスカレーター問題 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/174032/70102243

この記事へのトラックバック一覧です: 「義とされる」とは:

« 応仁の乱は時代の転換点 | トップページ | エスカレーター問題 »