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2017年1月14日 (土)

ヒロシの語る「ネガティブ哲学」

お笑い芸人ヒロシのインタビュー記事が、なぜか「東洋経済オンライン」から(笑)本日付で発信されているのでメモする。

僕は、まだブレークする前、1ヵ月7万円だけで東京で生活していたのです。信じられますか? 毎月いくらの家賃で生活していたんだろうという話ですよね。
一番売れていた時の月収は4000万円。今は手取りで月収60万円くらい。
これだけ金額に差があると、元に戻りたいでしょう、という方はいるかもしれませんが、そんなことは思わないんです。
考えてみれば、おカネはほどほどあれば、いいんですよね。
ただおカネが欲しい、上昇したいというのではなく、自分が大事にしたいことができるかということが、本当は大事なのではないかと思います。だから、また再ブレークという気配があったら、僕はかえって休んでしまうのではないかと思います。しんどいし、普通の生活ができなくなるし。
「頑張らないと、上にいけない」「明るくないと、人に好かれない」
世の中ではいろいろと「こうしなければ、幸せになれない」みたいな話がありますが、それについていけない人はいると思うんです。でも、それについていかなかったとしても、その人なりの幸せや生き方があるのだと思います。
僕もそうですが、ネガティブな人って、やさしかったり、自信がなかったりして、自分の意見が言えないことも多いんです。
そういう人を応援したいなと思っているんです。
やさしくてうまく動けない人が、(自分のネタのフレーズで)笑って元気になってもらえればうれしいです。

・・・小生も「ネガティブな人」なので(苦笑)、ヒロシのいわゆる「自虐ネタ」に応援してもらっている一人です。

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2017年1月10日 (火)

「老後」と宗教の無力化

宗教学者の島田裕巳は、「老後」というものが現代日本人の死生観を大きく変えた、と見ている。雑誌「アエラ」(1/16号)のインタビュー記事からメモする。

「老後」という言葉が朝日新聞に登場したのは1984年。戦後、第1次産業から第3次産業へと産業がシフトして都市化とサラリーマン化が進むなかで、「定年」という制度が生まれました。それまでは、基本的に死ぬまで働いていたわけですから、「生」と「死」の二分法でした。

ところが、戦後のサラリーマン世代が最初に定年を迎える80年代中盤以降に「老後」が誕生したことで、人生が3段階になった。老後に「死ぬまでの心配」をしなければならなくなったことは、大きな変化です。

同時に、家制度の弱体化も「死の意味」を変えました。日本人の死生観は「西方浄土」「極楽」という仏教的観念と家制度が結びついて醸成されてきました。「死んだら極楽浄土に行ける」「ご先祖様になって家や子孫を守る」と考えることで、「死」は意味を持ちました。

日本人には、「世の全てのものは移り変わり、いつまでも同じものはない」という無常観が根底にある。死が身近でいつ死ぬかわからないから、無常の世の中ではない「極楽浄土」に生まれ変わることを期待してきたのです。

だが、平均寿命が70、80歳と延びるにつれて、家の"新陳代謝"は滞り、核家族化や病院死の増加によって、死はどんどん遠いところへと追いやられていった。「極楽浄土」や「ご先祖様」という意味は見いだせなくなり、生きることが最大の価値になった。これが今の日本人の死生観なのです。

・・・昔は人間は簡単に死んだ。戦争、災害、伝染病、飢饉等々。だから昔の人の気持ちになれば、来世を信じないでやってられっか!というわけで、今生は来世や天国に行くための準備の時間と意味づけられる。しかし今では、新生児はほぼ無事に成人できるし、リタイアしてからの時間も延びた。要するに人間は長生きできるようになった。科学的知見の普及もあり、来世や天国のリアリティは昔よりも大きく低下。これに伴い、人生から宗教的な意味というか目的(あの世の救済)も失われた。今では人生の目的というと「長生き」、加えて「金持ち」というところだろう。これが文明進歩の果てに人間の抱く願望なのか。それは違うぞと思うなら、自分で自分の人生の意味を見つけるほかない。そういう意味では実存主義は今でもそれなりに有効なのかなと思う。

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2017年1月 3日 (火)

「ポピュリズム」というレッテル

「週刊エコノミスト」(1/3・10合併号)掲載のコラム記事「リベラルの罪」(英国在住のブレイディみかこ執筆)から、以下にメモする。

現代のメディアや知識人、政治家などに使用されるときの「ポピュリズム」は、デマゴギー(虚偽宣伝)やレイシズム(人種差別)といったネガティブな要素を多分に含んだ「脅威」の同義語になっている。欧米のリベラルにとって、ポピュリストとは、洗練されていない低学歴の人々のことであり、メディア人や知識人、政治家は、こうしたポピュリストを諸悪の根源であるかのようにレッテル貼りする。

現代のメディアにおける「Pワード」(ポピュリズム)の氾濫を見ていると、それは「間違った考え方」を象徴する言葉になり、メディアも政治家もそれと戦うことに躍起になっているように見える。

これほど欧米がPワードを恐ろしがるのは、それが欧州におけるファシズムの台頭を思い起こさせるからだろう。1920年代と30年代の大恐慌の時代に、大衆を喜ばせる言葉を発し、広報による情報操作戦略で権力を握ったヒトラーやムソリーニの時代を彷彿とさせられるからだ。

キャメロン前首相とEU残留派を負かしたのは、すべての政党とエスタブリッシュメントたちに、自分のささやかな希望や不安を無視されてきたと感じている「取り残された人たち」だ。

欧米の民主主義は、国家の枠組みや帰属意識、共同体意識、安定した仕事を原則として築かれたものだ。だが、近年のエリートやリベラルは、時としてこれらの原則を痛烈に批判する。国境をなくし何ものにも帰属せず、コミュニティーに頼ったり、仕事に安定を求めたりせず、グローバルに生き抜くのが"プログレッシブ"(進歩的)な人間なのだと彼らは啓蒙する。

しかし、世の中にはそういう生き方をしたくない人々もいる。「取り残された人たち」は、リベラリズム(とそれを奉ずるエリートたち)こそが彼らを生きにくくした原因だと考えている。

欧州や米国で起きた出来事をPワードという言葉で切り捨てることは、実質賃金の低下や、記録的水準に達そうとしている格差への人々の怒りから目をそらすことにほかならない。

・・・このところメディアでは、「ポスト・トゥルース」という直輸入ワードを見たり聞いたりする。これは、客観的事実よりも感情へのアピールが世論形成に大きく影響する状況を指す言葉らしい。なので「ポピュリズム」の関連用語という感じではある。といってこれを、トゥルースはエリートの側にあり、大衆は感情的に動くだけ、という図式にしてしまうと、見逃してしまう事柄も多くなるのではないだろうか。結局はエリート層にも、「取り残された人たち」にも、それぞれの「トゥルース」があり、困難ではあっても両者の調停を図りながら、合意形成していくほかないように思われる。

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