「正統と異端」の謎
『仁義なきキリスト教史』(架神恭介・著、ちくま文庫)は、キリスト教の歴史をやくざの抗争に見立てた小説風読み物。ケレン味たっぷりながら、各章に付された「解説」を読めば、相当な勉強の上に書かれていることが窺える。以下のメモは第5章「ローマ帝国に忍び寄るやくざの影」の「解説」より。
ニカイア公会議に関して簡単に解説すると、これはイエスのキャラ設定の問題である。アレイオスの主張によると、イエスはヤハウェにより一番最初に創造された被造物であった。一方、アレクサンドロスの主張では、イエスは創造されておらず最初からヤハウェと一緒にいたのである。アレイオスから見れば、アレクサンドロスの主張は神が二人いるようなものなので多神教になってしまうし、アレクサンドロスから見れば、アレイオスの主張ではイエスはただの「創られたもの」なのだから拝んではいけないことになってしまう。なので、彼らは自説を譲らず互いに争った。
我々部外者からすれば全くもってどうでもいい問題である。元々が意味不明なのだから当然正解も不正解もない。
だから、彼らはただどちらの理屈が面白いかで戦っているのである。
ニカイア公会議ではアレクサンドロス派が勝利したのであるが、所詮正解も不正解もない問題なので、皇帝が代替わりして支持する派閥が変わるごとに、あっちが正解になったりこっちが正解になったりする。キリスト教の言う正統、異端というのはこの程度の違いである。異端だから悪いとか間違っているとか、そういうものでもない。
・・・キリスト教には「三位一体」という特にワケの分からない教義があるけど、とにかく難解な説明の方が有り難みがあるというか、そんな程度の理由で「正統」が決まってるんじゃないかと、部外者は疑ってしまう。正統が正統である根拠は薄弱であるとすれば、だからこそ、正統派からの異端に対する弾圧は苛烈を極めたのではないか、という気がする。
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