« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »

2016年12月30日 (金)

のんインタビュー記事

アニメ映画「この世界の片隅に」で声優として主人公「すず」役を演じた女優のん(能年玲奈)。彼女のインタビュー記事が、なぜか「週刊エコノミスト」(1/3・10合併号)に(笑)載っているので、以下に一部をメモする。
 
「すずさんと一緒に生きたような気がした」という感想を聞くことが多く、とてもうれしいです。日常が積み重なっていき、映画の中の世界を自分に引き付けて感じられると思います。素直にすずさんや風景を受け入れられるリアルさがあります。
 
(戦争や戦時下の暮らしは)自分のいる場所とはまったくの別世界だと思っていました。知りたくないという気持ちがあり、目を背けていたのですが、自分が住んでいるこの世界の中にすずさんたちの時間があって、それが続いていて、私たちの過ごす今がある。すずさんのような力強い人たちの後を継ぎ、これからも毎日をつなげていくのだと思いました。
 
(役作りで心がけたことは)すずさんのおとぼけたところとか、ぼーっとしていると言われるけど、力強いところを出せればいいなという思いがありました。すずさんのイメージからあまり想像できないようなセリフは、監督に「どういう意図があるのでしょうか」と何度も聞きました。
 
完成した作品を試写で見たときは、もっとこうすればよかったという反省、役者としての欲が出てしまって、冷静に見られなかった。でも先日プライベートで見たら、「案外いいな」って思っちゃいました(笑)。
 
・・・コメディーが大好きで渥美清を研究しているという彼女の今後の活躍を期待しよう。
 
「この世界の片隅に」について言えば、大変丁寧に作られている作品だとは思う。ただ登場人物の行動や言動にやや不可解というか違和感を抱く場面もある。それ以上に、主人公が過酷な目に遭うのは嫌な感じがした。お話の作り方として、そこまでやる必要があるのか疑問。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月29日 (木)

真珠湾とヒロシマ

現地時間12月27日、安倍首相がオバマ大統領と共にハワイ真珠湾・アリゾナ記念館を慰霊のために訪問。首相は演説の中で「和解の力」と「寛容の心」を強調した。
今年5月のオバマ大統領の広島訪問もあり、日米は過去の歴史に区切りを付けたという見方がされているようだ。
とはいうものの、どっちかっていうとまず日米同盟の緊密アピールありき、のような印象もあるわけで。つまり外交の必要性から、日米トップの歴史的相互訪問が実現したという感じ。
大体「和解」と言っても、お互いに謝罪なしで本当に和解したことになるのかと。
そもそも、真珠湾とヒロシマを同列に扱うのはおかしいだろう。確かに太平洋戦争は真珠湾攻撃に始まり、広島・長崎への原爆投下で終わったということはある。でも、真珠湾では軍人の戦死者2,000人以上に対し、広島・長崎は市民20万人以上が新兵器の実験で殺されたのだから、釣り合うわけがないだろうと思う。
真珠湾攻撃も「不意討ち」であることが、許しがたいとされるようだが、当時アメリカは日本側の通信の暗号解読により、真珠湾攻撃の可能性を全く意識していなかったわけではない。ということが、 映画「トラトラトラ!」に描かれている。しかしこの機会に見直したけど、この映画やっぱりよくできてる。思いっきりお金をかけて真珠湾攻撃を外交部分も含めて映画化する、そこはアメリカという国の凄いところだなと思ったりする。
まあ緊密な同盟国と言っても、対等な国同士の関係とは思えないし。オスプレイ墜落に揺れる沖縄といい、難航する北方領土返還といい、旧連合国から見れば、日本は相変わらず敗戦国であり属国の扱い。という不愉快な現実を認めざるをえない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月25日 (日)

16世紀という「画期」

歴史家のブローデルと社会学者のウォーラーステイン、二人の学説にとって16世紀は画期的な時代である。以下に『仕事に効く教養としての「世界史」Ⅱ』(出口治明・著、祥伝社)からメモ。
 
最初にブローデル。彼は歴史という大河を「長波」、「中波」、「短波」の三層構造で捉えました。歴史の表層に登場する個人やさまざまな出来事がありますが、これを「短波」と考えました。次にもう少しゆっくり変化していくもの、たとえば王朝の興亡や長期にわたる戦争、宗教の発展やイデオロギーがらみの紛争などを「中波」と呼びました。それらの「短波」や「中波」の深層にある人為的に変えることが難しいもの、自然環境や地理的条件や気候、さらには人間の日常生活を精神的に支えている死生観や人情のように非常にゆっくりした変化しか起こさないものを「長波」と呼びました。
 
ブローデルは、歴史は「中波」と「短波」が重なり合って、さまざまな変化を生み出すように見えるけれども、時代が大きく変化していくときには、その深層にある「長波」の動きがあることを忘れてはならないと指摘しています。
ブローデルはそのような歴史観に立って、大著『フェリペ二世時代の地中海と地中海世界』を執筆しました。
 
次に社会学者であるウォーラーステインは「世界システム」という、世界を一体的に捉える概念を提唱しました。
彼はまず、「世界帝国」と「世界経済」を区別します。世界帝国とは、たとえば地中海世界やイスラム世界のように、一定の領域内に言語の異なる複数民族が暮らしている地域的なまとまりのことです。
さらにウォーラーステインは、世界経済という概念を提唱し、以下のように定義しました。それは「資本主義によって結ばれている世界である」と。資本主義や世界経済と言いましたが、それは交易や分業を中心とする、経済的な結びつきによって成立している世界の意味です。
このような経済的関係によって構成される地域の結びつきを、ウォーラーステインは、世界システムと呼びました。世界システムは、世界を中央・半周辺・周辺と区分し、それらの分業体制によって世界が成立しているという概念であり、このような世界的な分業システムが、より強固になった16世紀以降をウォーラーステインは、「近代世界システム」と呼んでいます。
 
世界史を短波・中波・長波という3つの異なる時間軸の合成として見つめ直すこと。また世界は中央・半周辺・周辺という分業システムで動いていると一体的に捉えること。ブローデルとウォーラーステインがともに16世紀を中心に自らの学説を展開したのは、16世紀が時代を画する世紀であったからに他なりません。
 
・・・世界は激動している。というのが挨拶代わりのような現代。はたして16世紀と同様、歴史の転換期なのか。とはいえ「近代世界システム」に大きな揺らぎはないように見える。では「長波」の動きはどうか――といっても「長波」の動きなんか分からんよなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月24日 (土)

イエスとキリスト教の謎

仁義なきキリスト教史』(架神恭介・著、ちくま文庫)の各章に付された「解説」(第1章~第5章)から以下にメモする。
 
当時、民衆の間に流布していたのが黙示思想である。これはいずれ終末(天地異変や破局的な惨劇)が訪れ、メシア(キリスト)が現れて選ばれた者たちを救い、義(ただ)しい者が復活、「神の国」が実現する、というものであった。

イエスの師匠格である洗礼者ヨハネも終末思想を説く宗教家であったと思われる。無論、弟子のイエスも師の影響を受けたことであろう。

イエスが実際に何をしていたかというと、これははっきりしない。ほぼ唯一の資料である福音書は伝説と脚色にまみれており、そこから史実のイエス像を抽出することは難しい。ある程度、信憑性を持って言えることはイエスが病治(やまいなお)し活動をしていたということだ。
 
イエスが処刑された理由もよく分からない。
推測の域を出ないが、イエスが求心力を持っていたこと、それ自体が問題視されたのではないだろうか。ユダヤ人の王を僭称しローマに対し反乱を企てた扇動者として処刑されたのだろう。

イエスの死後、遺された彼の取り巻き――弟子たちは活動を継続した。なぜだか彼らは活動を続けたのである。如何なる心理が彼らにそうさせたのかは分からない。
 
イエスの死後、彼こそが待望していたメシア(キリスト)であったと考える一派が現れ、彼らがキリスト教と呼ばれるようになる。ユダヤ教との最大の違いは、ユダヤ教徒はイエスのことをキリストだと認めていない点にある。
 
もうじきキリストが現れ終末が訪れるというのは、当時の一般的な思想傾向であったし、そのキリストが死んだはずのイエスだというのも、奇矯なアイデアではあるがまだ理解できる。だが、イエスを神に類するものと見なし始めたのは理解に苦しむ現象である。
 
当たり前だが、キリスト教も当時は新興宗教である。よく分からないので根も葉もない噂が飛び交い、彼らは迫害を受ける。

キリスト教の迫害が終結したのはコンスタンティヌス帝の時代。313年のミラノ勅令にて公認されたのがターニングポイントと一般に理解されている。なぜコンスタンティヌスがキリスト教を公認したのか、明確な理由は分からない。
 
・・・392年にキリスト教はローマ帝国の国教となる。長い時間をかけて歴史的に形成されてきた宗教であるキリスト教。しかしその発展のプロセスは謎だらけ。ふしぎなふしぎなキリスト教である。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月23日 (金)

「正統と異端」の謎

仁義なきキリスト教史』(架神恭介・著、ちくま文庫)は、キリスト教の歴史をやくざの抗争に見立てた小説風読み物。ケレン味たっぷりながら、各章に付された「解説」を読めば、相当な勉強の上に書かれていることが窺える。以下のメモは第5章「ローマ帝国に忍び寄るやくざの影」の「解説」より。
 
ニカイア公会議に関して簡単に解説すると、これはイエスのキャラ設定の問題である。アレイオスの主張によると、イエスはヤハウェにより一番最初に創造された被造物であった。一方、アレクサンドロスの主張では、イエスは創造されておらず最初からヤハウェと一緒にいたのである。アレイオスから見れば、アレクサンドロスの主張は神が二人いるようなものなので多神教になってしまうし、アレクサンドロスから見れば、アレイオスの主張ではイエスはただの「創られたもの」なのだから拝んではいけないことになってしまう。なので、彼らは自説を譲らず互いに争った。
 
我々部外者からすれば全くもってどうでもいい問題である。元々が意味不明なのだから当然正解も不正解もない。
 
だから、彼らはただどちらの理屈が面白いかで戦っているのである。
ニカイア公会議ではアレクサンドロス派が勝利したのであるが、所詮正解も不正解もない問題なので、皇帝が代替わりして支持する派閥が変わるごとに、あっちが正解になったりこっちが正解になったりする。キリスト教の言う正統、異端というのはこの程度の違いである。異端だから悪いとか間違っているとか、そういうものでもない。
 
・・・キリスト教には「三位一体」という特にワケの分からない教義があるけど、とにかく難解な説明の方が有り難みがあるというか、そんな程度の理由で「正統」が決まってるんじゃないかと、部外者は疑ってしまう。正統が正統である根拠は薄弱であるとすれば、だからこそ、正統派からの異端に対する弾圧は苛烈を極めたのではないか、という気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月17日 (土)

プロ棋士の存在意義

「将棋界は今、未曾有の危機を迎えている」と訴えるのは、プロ棋士の橋本祟載八段。著書『棋士の一分』(角川新書)の中で、「ファン投票で出場者が決まる」新棋戦の創設や、トーナメントプロとレッスンプロの役割分担を明確にする、などの将棋界改革案を提示。以下に同書から、プロ棋士の存在意義について述べている部分をメモする。
 
プロ棋士がなぜ対局料をもらえるのかといえば、将棋というゲームの可能性をファンに見せて夢を与えていることへの対価なのではないだろうか。
しかし、将棋というゲームがもつ可能性は無限ではなく有限である。ボードゲームである以上、真相・真理があるのは絶対だからだ。
それでも、その有限を無限に見せることはできる。それまで誰も考えつかなかったような一手を指すことなどがそうだ。苦労を重ねて定跡をつくり、試行錯誤によってそれを塗り替えていく。長い歴史の中でそうした繰り返しがありながらも結論が出ないからこそ奥が深いと感じる人がいて、ゲームの虜になるのだ。
そこに計算機、コンピュータが入ってくれば、そうした魅力がなくなってしまいかねない。
見る価値がなくなり、お金を取れるものでなくなれば、プロ棋士も存在できなくなるのは必然である。
 
・・・上記のような見方を、オールド将棋ファンである自分も共有する。今回の竜王戦挑戦者の交代につながった「事件」が事実ならば、問題となった行いはプロ棋士の自己否定としか言いようがない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月11日 (日)

中高年の観た「君の名は。」

主人公が高校生の恋愛ものアニメか・・・いくら大ヒット映画でも、自分のような中高年には関係ないな――というのが、「君の名は。」に対する印象。だったのに、公開から3ヵ月を過ぎた先日、とうとう観てしまった。
きっかけはNHK「クローズアップ現代+」(11/28放送)。「君の名は。」の大ヒットの秘密を探るという内容の番組の中で、当初は10代、20代の観客が大多数だったものが、直近は30代以上の人が半数を占めることが紹介された。さらに番組で中高年向け試写会を行ったところ、観客53人中36人、約7割の人が自分の経験した過去の出会いや別れの記憶が甦り、心を動かされたというのである。ならば自分も観ておくべきかな、と意を決して映画館に足を運んだ次第。(正直個人的には、そもそも出会いや別れの記憶に乏しいんだけど。苦笑)
 
で、観終わって最初に思ったのは、「フシギな話だな~」と我ながらマヌケな感想。ただ観る前に抱いていた印象とは大きく違った物語だったのは確か。何というのか、死者と生者が出会い、変えられないはずの過去を変えてしまうことで、死者の死は無かったことになる物語とでもいおうか――これを恋愛ものというのは違うな、とまで感じた。
 
大体、基本的に男の子と女の子の体と心が入れ替わるという、フィクションとしてはありがちな、しかし現実には絶対にありえない設定であるところに、プチ・タイムスリップというか3年のタイムラグというヒネリが加えられて、最後に彼と彼女は偶然に「再会」するという、徹頭徹尾ありえない話になっている・・・けど、それ自体はもう「奇跡」のファンタジーと言われれば、「フシギな話」をそのまま受け入れるほかないな~という感じである。
 
この映画のクライマックスは、カルデラ状の山の上の彼と彼女の出会いだろう。ラストに置かれた東京での「再会」は「おまけ」みたいなものだ。山の上の御神体のある場所、あの世とこの世の境目というか、あの世の入り口のある場所に立つ彼と彼女。最初は見えなかったお互いの姿が黄昏時(誰そ彼時、逢魔が時)の中で現われて、彼は3年前に死んだはずの彼女と出会いを果たす・・・様々な暗示に満ちたこの場面から思い起こされるのは、ギリシャ神話にも日本神話にもある、死んだ妻を冥界から連れ戻そうとする話。いずれの神話でも夫は目的を果たすことはできないのだが、この映画では過去を変えることで、彼女はこの世に戻ってくるし、多くの人が命を救われることになる。
 
彼女を救おうとする彼を突き動かす力の源は、恋愛感情というよりは、「忘れたくない人。忘れちゃダメな人」に対する強い愛惜の気持ちではないかと思える。死者も含めてもう会えない人、会うことはないかもしれない人に対する愛惜の念。その記憶は、若者よりも中高年の方が当然多く抱えている。だからこそ、この映画は中高年の心にも届くものになっている、のではないか。
 
結局、今年の東宝の2大ヒット作品「君の名は。」「シン・ゴジラ」を、自分も繰り返し見ちゃったぞ。両作品に共通するのは、3.11の記憶が色濃く反映されていること。あの大災害から5年を経て、カタストロフィの意識を見事に作品化して世に送り出したクリエーターたちには賞賛あるのみだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »