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2016年4月30日 (土)

怪獣酒場

川崎駅前のとあるビルの地下に店を出す、一風変わった居酒屋。

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その名も「怪獣酒場」。祝日午後3時開店の20分前に着いたら、10数人の行列が出来ていたのにちょっとびっくりした。

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とりあえずビールを頼むと、出てきたのはジャミラ「ドライ」なる生ビール。

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席や部屋などの空間、フードやドリンク、要するにすべてが怪獣コンセプトで満たされているお店。出来たのは二年前、当初は一年間の期間限定営業としてスタートしたものが、概ねそのまま継続しているとのこと。

まあでも酒場というのは基本的にしゃべったり騒いだりの場所だよな。思ったんだけど、怪獣カフェというのがあったらいいなと。怪獣の資料が置いてあって、怪獣の世界にひたすら浸れる空間になってるみたいな。商売的には成り立たないだろうけど。

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2016年4月24日 (日)

ドニントンのレインボー

往年のハードロックバンド、レインボー。昨年CD5枚+DVD1枚のボックスセットが出たと思ったら、今年は1980年のイギリス・ドニントンで開催されたモンスターズ・オブ・ロックのライブがCD2枚組、ほぼ完全版で出た。DVD付きの商品もあるが、この内容はボックスセットに収められたものと同じ30分の短縮版映像。画質はさらに向上しているとの触れ込みだが、まあこれはもういいやとCDのみの商品を購入。

「スターゲイザー」は昨年のボックスセットでCD化されていたので、今回のライブ盤での聞きものは、「ロストインハリウッド」になるだろうか。ギターソロ(ベートーベン「歓びの歌」など)、キーボードソロ(映画「未知との遭遇」など)、ドラムソロ(チャイコフスキー「1812」など)を盛り込んで、何だかんだで30分近いロングバージョンの楽曲演奏は、いかにも当時のブリティッシュ・ハードロックのお家芸を見せつけるようなライブの展開。

御大リッチー・ブラックモアは今年6月にドイツとイギリスで計3回、ロックギタリストとしてステージに立つ予定で、「モンスターズ~」の発売は限定復活ライブに向けた商売の一環という印象もあるが、何はともあれリッチーのキャリアにおいて「カリフォルニア・ジャム」と並ぶ伝説のライブの商品化を喜ばしく思う。何しろライブ自体が36年も前のこと、もう公式盤は出ないような気がしていた。長生きしてると、思いもよらないことが起きるもんだ。(苦笑)

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2016年4月23日 (土)

ビール純粋令500年

今日の日経新聞を開いたら、「2016年4月23日ビール純粋令500周年」との文字が目に飛び込んできた。1516年にドイツで制定された「ビール純粋令」、すなわちビールの原材料は「麦芽、ホップ、水、酵母のみ」と定めた法律を守るビールを提供しています、との某外食企業が出した全面広告でありました。

16世紀のドイツは、領邦と呼ばれる地域国家の連合体「神聖ローマ帝国」の時代。件の広告を見て、ああそういえば、と思い出したのが朝日カルチャーセンター講座(皆川卓先生)で聞いた話。以下はそのレジュメ資料から。

帝国屈指の有力な領邦君主であるバイエルン公ヴィルヘルム4世(1488~1550)は、ビールが多く造られるバイエルン公国の君主であったが、都のミュンヘンが田舎の城下町から大都市に変わっていく中、ビールに安い混ぜものがされることが原因で起こる業者と消費者のトラブルを数多く抱えていた。そこでバイエルン公は、1516年にミュンヘンをはじめバイエルン全土で、水・大麦・ホップ以外の材料をビール製造に使うことを禁止する法律を出した。

おりしも1530年にアウクスブルクで開かれた帝国議会では、一般住民の経済や生活にかかわる法律を一括して出す計画が進められていた。そこで帝国議会に出席したバイエルン公は、この法令を手本にする提案を行った。同じトラブルに悩まされていた皇帝カール5世や他の領邦君主、自由都市も納得し、新しい帝国法にこのビール純粋令(Reinheitsgebot)を盛り込んだ。

この法令は、添加物によらず自然の温度や湿度を利用して味も色も全く異なるビールを作り出す技術を生み出し、ドイツ連邦にもドイツ帝国にもドイツ連邦共和国にも引き継がれて、現在に至るまでドイツビールの質を最高水準に保っている。

・・・500年も前に作られた法律を今も頑固に守り続けているのがドイツらしいと思える一方、そういう制約があったからこそ様々な工夫が生まれたとも考えられるわけで、それもまた研究熱心というか道を究めるドイツ人気質の現われなのかと。

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2016年4月20日 (水)

ブラキオサウルスを見よ

先週末、福井県立恐竜博物館に行った。最近、ブラキオサウルスの全身骨格が新たに展示されたという話を見つけたからだ。

もう30年以上も前、1984年の夏、東京・新宿駅南口に近い特設会場でフンボルト大学のブラキオサウルスの全身骨格化石が展示されたことがあった。実際に会場に足を運んで、その大きさに圧倒された覚えがある。今では大きさだけならブラキオサウルスを超える恐竜はいくつも発見されているだろう。しかしその特徴的な姿、前足の長い四つ足、さらに長い首を突き上げるように伸ばしたその高さに勝る恐竜を知らない。

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上の写真は、左手前ティラノサウルス、右奥ブラキオサウルスのツーショット。下の写真は、その2体を上のフロアから遠望したところ。こうして見るとブラキオサウルスの大きさが歴然とする。高さは11メートルを超えるとのこと。

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恐竜博物館に行ったのは本当に久しぶり。11年ぶりになる。当時自分は名古屋在住。記録によると「青春18きっぷ」で在来線を乗り継いでいったらしい。当時40歳代半ばだけど、今から思うと「若かった」と思ってしまう。(苦笑)

恐竜博物館は大体以前来た時のイメージのままだった。しかし、えちぜん鉄道が高架線路になっていたのにはびっくりした。福井駅はホームまで長い階段を上るのである(エレベーターもある)。勝山駅にはレトロ風のカフェもできてたし。どちらも最近出現したらしい。いや~久しぶりに行く場所には発見がある。結構変わるもんなんだなあ。

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2016年4月13日 (水)

石川数正の「出奔」

石川数正というと、松本城を築いた人。であることが、自分にはとりあえず思い出されるわけだが、この数正、もともと徳川家康の家臣だったものが、あるとき徳川を捨てて羽柴秀吉の下に走っちゃった人でもある。ということを、竹橋の国立公文書館で開催中の特別展「徳川家康」の展示、さらに先日の大河ドラマ「真田丸」を見て、よくよく認識することになった。

石川数正の出奔は、小牧・長久手の戦いの後、秀吉が家康を何とか臣従させようと外交攻勢をかけていた時期の出来事で、数正は秀吉に取り込まれたとの見方がある一方、何らかの理由で徳川家中における数正の地位が脅かされていたのではないか、といった見方もある。

家康に重用されていた数正は徳川家の軍制にも通じていた。いわば「企業秘密」を握る人物が出奔してしまった痛手は大きく、この後徳川の軍制は武田流に改められたと言われるほどである。

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2016年4月 4日 (月)

「関ヶ原」新史料発見とか

関ヶ原の合戦直後の貴重な史料が見つかったとか。毎日新聞サイトの本日付配信記事からメモ。

関ケ原の合戦の呼び名は当初、「青野カ原の合戦」だった?――。京都市右京区の陽明(ようめい)文庫(名和修文庫長)に保管されていた古文書「前久(さきひさ)書状」に合戦直後の様子が詳細に記され、戦いの場所が「関ケ原」ではなく「青野カ原」と書かれていたことが分かった。合戦に関する戦記物などは多数現存するが、合戦直後の1次史料は非常に少なく、専門家は「当時の状況が分かる第一級の史料」としている。

調査した石川県立歴史博物館館長の藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)が2月、陽明文庫講座(東京大学史料編纂所・科研費プロジェクト主催)で発表した。

戦国時代の公家・近衛前久(1536~1612年)が記した前久書状。合戦5日後の慶長5年9月20日に書かれたもので、徳川家康が江戸城を出発した日時や小早川秀秋の寝返りなど14項目にわたり、かなり正確に記述されていたことが判明した。

藤井教授は書状に「青野カ原ニテノ合戦」と記載されていたことに着目。青野カ原は南北朝時代の古戦場として当時から知られていたことや関ケ原から東北東約8キロの地点にかつて「青野村」(現・岐阜県大垣市青野町)があり、毛利家一族の吉川広家の自筆書状や「慶長記略抄」の狂歌にも関ケ原の戦いが「青野か原」と記載されていると指摘している。

「関ケ原」の記述が出現するのは主に同年10月以降の島津家の古文書から。藤井教授は「当初は関ケ原の戦いという呼び方ではなかった」と推測している。

・・・この史料により「関ケ原の合戦の認識が変わる可能性がある」(藤井教授)とのことだが、自分的には小早川の裏切りがどう書かれているのか気になる。最近では、小早川は開戦と同時に東軍として参戦し、西軍は2時間で崩壊したという説もあるので。

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