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2015年11月28日 (土)

柄谷行人の宗教論

ニュースがわかる! 世界三大宗教』(文藝春秋SPECIAL冬号)掲載の、柄谷行人・語り下ろし宗教論から以下にメモ。

私はここ十年以上、歴史を四つの交換様式から構造的に考える仕事を続けてきました。宗教についての考察もそこに含まれます。 

一つ目の交換様式Aは「互酬」です。
二つ目の交換様式Bは「略取と再分配」です。
三つ目の交換様式Cは「商品交換」です。
国家が成立する以前の氏族社会ではA、専制国家や封建的国家のような国家社会ではB、近代資本制社会ではCが支配的です。

「A・B・Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式Dの実現を目指す社会運動。それを私は「普遍宗教」と呼びます。
D=普遍宗教が出現する条件は、非常に発展したA・B・Cが社会に浸透していることです。
歴史的に見ると、その条件は「世界帝国」の出現によって満たされました。具体的に言えば、ペルシア帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国などがそれにあたります。

D=普遍宗教は、自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指します。ですから、Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗します。つまり、AとBを批判し、否定します。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらすCを批判し、否定します。これこそが、D=普遍宗教は「A・B・Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味です。
キリスト教、イスラム教、仏教などは当初、このような「普遍宗教」として出現したと考えられます。

これらの普遍宗教は、当初は弾圧されましたが、いずれも世界帝国の宗教、すなわち「世界宗教」となりました。キリスト教はローマ帝国で、イスラム教はイスラム帝国で、仏教は唐王朝で、「国教」となりました。

しかし、普遍宗教は「国教」になると、これまで批判してきたはずの王=祭司を頂点とする国家体制の支配の道具に成り果てました。普遍宗教は世界宗教となることで、「堕落」したのです。

・・・歴史的に帝国の周辺から社会運動として現われた「普遍宗教」は、やがて帝国に取り込まれ「世界宗教」として体制化された。当初の社会運動の性格が失われてしまえば、体制化は「堕落」であると見なされても仕方がないのだろう。

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2015年11月22日 (日)

美濃市うだつの町を歩く

昨日に続き美濃地域に滞在、美濃市「うだつの上がる町並み」を訪ねた。前から何となく気になっていて行きそびれていた場所に、やっと来たという感じ。長良川鉄道の美濃市駅から徒歩10分程で、町並みのエリアに着く。

とりあえず「一番町通り」と「二番町通り」があって、全体的な雰囲気は「一番町通り」の方がより良い感じかな。

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自分の気になったのは大石家住宅。屋根の上に小さい祠がある。いわゆる「屋根神」様だな。うだつに加えて、屋根神様付きなのが地元っぽいというか地域っぽいというか。

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旧武藤家住宅は、「幸来家」という手打ちそばのお店になっている。ここで天ぷら付かけそば定食をいただきました。

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宿場町とはまた少し違う趣の商人の町もなかなか良い感じで満足しました。

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2015年11月21日 (土)

鵜沼宿を訪ねる

本日のJR東海さわやかウォーキング、各務ヶ原駅スタート、鵜沼駅ゴール約11.6㎞のコースを歩いた。コースのポイントの一つになっていた鵜沼宿は行ったことがなかったのが、参加の理由。
鵜沼宿の今残る町並みの規模は小振りである。市街地の中にあるので、町並みの真ん中を通る道は自動車が結構走る。だから歩行者がうろうろ散策するという感じでもない。観光地的にはあんまりよろしくない。という気がする。

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この道を車が結構通行しているので歩行者は気を付けよう。

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宿場町の風情が感じられる建物を見ることができます。

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2015年11月20日 (金)

リッチーのレインボー、3たび輝く

来年2016年6月に予定されているリッチー・ブラックモアのロック公演。ドイツ2回、イギリス1回。ボーカルはロニー・ロメロという若い人。
しかしリッチーのハード・ロック復帰というニュースに心躍るものがあるかといえば、自分はそうでもないわけで。
リッチーはロックを引退した人。要するに過去の人。自分はそのように見做していた。大体リッチー本人が今回のロック・ライブをやる理由について「ノスタルジア」と語っているようだから、とりあえずそういうことなんだろうと。過去の人が過去の曲をやると。
それでも公演メンバーに元ディープ・パープルや元レインボーの人が入っていないのは、むしろポジティブに受け止められる。もし入ってたら、まるっきりノスタルジアになってしまうからね。
やっぱりロック・ボーカリストは若い人でないと。かなりのシニアが声を張り上げて歌うハード・ロックというのは、聴いていて辛いものがあるし。その点、ギタリストは指が動けば大丈夫だから、有利だな。
それにしても、40年前の高校生である自分には、やはり感慨はある。40年前、リッチーはディープ・パープルを脱退してレインボーを作った。そして20年前、リッチーの2度目のレインボー結成。そして今年、3たびレインボーが現われるという知らせが届いた。
ブラックモアズナイトは全く聴いてない自分は、この20年の間は御無沙汰ではあったけれど、あらためてリッチーと共に生きてきた?年月の長さを思えば、やはりリッチー・ブラックモアの「最終章」は見届けなければ、という義理を感じるような気持ちもある。

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2015年11月15日 (日)

フェデリーコ2世の合理主義

世界史の造詣が深い経営者として知られる出口治明氏が、新著『世界史の10人』(文藝春秋)の中で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(フェデリーコ2世、1194~1250)を取り上げている。以下に一部をメモする。

フェデリーコは鷹狩りを趣味とし、鷹狩りをテーマにした『鷹狩の書』という著書もあります。作家の塩野七生氏は、『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(新潮社)で、『鷹狩の書』と、レオナルド・ダ・ヴィンチが書いた『絵画論』を対比させて、フェデリーコがダ・ヴィンチより二百年以上も前に、生物や自然に対する客観的な観察眼をもって論理的な文章を書いていたこと、そして二人の自然に対する精神はまったく同じものであったと示しています。

スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトは、フェデリーコを「王座上の最初の近代人」と評していますが、合理的に考え、宗教を相対化できるその知性は、今の時代にも十分通用するものです。

フェデリーコは、東ローマ帝国の皇帝に自分の庶子を嫁がせたりもしている。東方教会も彼の中ではいくつもの宗教のひとつにしかすぎなかったのでしょう。アラブ人のアル・カーミルと外交交渉によってエルサレムに平和を取り戻しているほどですから、彼にとっては、イスラム教もローマ教会も東方教会も等価だったのです。これこそが、近代合理性というものでしょう。中世の年代記にフェデリーコが「世界の驚異」と形容されたのも、うなずけるというものです。

・・・出口氏は、フェデリーコは「生まれてくるのが二百年、三百年早すぎた」と記す。確かにフェデリーコの死後300年経っても、ヨーロッパでは宗教戦争や魔女狩りの嵐が吹き荒れていたことを思えば、脱宗教の君主フェデリーコは、中世に生まれた「近代人」と呼んでも誇張ではない、時代を超越した誠に驚異的な人物であったのだという、殆ど畏敬の念に近い感動を覚える。

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2015年11月14日 (土)

『「魔女」の世界史』からメモ

先日、「魔女の秘密展」を見に行ったばかりで、今度は『「魔女」の世界史』(宝島社)が本屋にあるのを見て、自分的には余りのタイミングの良さにガツンとやられた感じ。情報量も豊富で1080円とお得感のある本です。監修者の黒川正剛先生は日本における魔女研究の第一人者。冒頭のインタビュー記事から、「魔女狩り」について以下にメモ。

魔女を研究するうえで避けては通れないのが魔女狩り・魔女裁判ですが、「魔女狩りを行う人間とはいったい何なのか」に迫るのが、研究の大きな軸となっています。
また、「魔女信仰と魔女狩りというのは、歴史的現象として何だったのだろうか」という知的好奇心があって、そこに迫るうちにヨーロッパの歴史や文化、当時の人々の世界観や生き様などへの理解にもたどり着くことができます。

魔女狩りは、古代から近世にかけて起きたヨーロッパの様々な出来事、そして育まれていった文化が複合的に絡み合ったことで起こった現象です。古代ギリシア・ローマ神話の遺産、キリスト教による異教の弾圧、正統カトリック教会による異端(カタリ派、ワルド派など)の迫害、ユダヤ教徒やハンセン病患者などの社会的周縁者への差別、宗教改革とカトリック・プロテスタントの対立、近世における女性の立場の悪化などは、魔女狩りの発生を語るうえでは外せない事象です。いずれもヨーロッパの歴史や文化を考えるうえで重要な出来事です。こうした事象が中世までに積み重なっていき、近世に入って魔女狩りという形で一気に噴出したのです。

・・・魔女狩りとは、まさにヨーロッパの歴史の陰画。極端な事象にこそ物事の本質が現われると言ってもいい。魔女狩りを知ることで、ヨーロッパなるものを裏側から引っ繰り返す格好で理解できるだろう。

ところで僕が魔女裁判のことを知ったのは小学生の時。少年マガジンの大伴昌司大図解で見て、西洋人は得体が知れないと子供心に気味の悪いものを感じた。思えば、あの頃のマガジンは小学生の教養書だった。大伴昌司、凄かったです。

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2015年11月13日 (金)

「魔女の秘密展」に寄せて

「魔女の秘密展」という展覧会が主要都市を巡回している。今年の春、大阪から始まり新潟、名古屋と来て、現在浜松で開催中。会場は浜松駅前の遠鉄百貨店内と分かりやすい場所。東京に来るのは来年2月とまだ先なので、先日新幹線に乗って浜松まで見に行っちゃいました。

展覧会はおよそ100点の展示物で構成されていて、やはり魔女裁判の辺りが見ものかと思う。以下は展覧会カタログに掲載の文章「魔女小史」から、魔女狩りの背景、要因についてメモ。

現代の魔女研究では、ヨーロッパにおいて15世紀半ばからの300年間でおよそ6万人の人たちが魔女として処刑され、そのうちの半分以上は神聖ローマ帝国(当時のドイツはこのように呼ばれていた)の領域で行われたと確認されている。 

最近の研究でようやく、魔女の迫害と過酷な気象状況との間に深い関係があることがわかってきている。ヨーロッパの中世が終わりつつあるころから、世界規模で気候の悪化が見られた。これは「小氷期」と呼ばれ、19世紀まで続く。
そして、驚くべきことに気象状態が特に悪い年と魔女の迫害が一致するのである。
魔女ともっともよく結びつけられる呪いの魔術の2つが、収穫を駄目にする「雹の魔法」、
乳牛を病気にする「牛乳の魔法」だったことを考えれば、最も激しい魔女迫害の波が、「小氷期」の中の気候的に最も厳しい時期と重なるのも不思議なことではない。 

つまり、悪魔の魔力で人間にあらゆる苦しみを引き起こす魔女は罰せられるべしと信じられたのは、こうした気象条件によっても増幅されたのである。さらに、近世のヨーロッパを厭世的にしていたのは「小氷期」だけではなかった。ペストのような伝染病、農民戦争や三十年戦争のような、経済や社会・政治に劇的な荒廃をもたらす戦争、プロテスタントとカトリックの宗教的な緊張関係も、この時代の気分を決定していた。

・・・最近出た本、『欧米社会の集団妄想とカルト症候群』(明石書店)にも、魔女狩りが取り上げられている。その背景としては宗教対立、戦争、不作など時代の葛藤やストレスのほか、やはり気候状況が最近の注目点として挙げられている。

とはいえ、日本人から見れば魔女狩りは、やはりキリスト教の怖さがもろに出た現象としか言いようがない。

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2015年11月 8日 (日)

『嫌われる勇気』からメモ

おととしの年末に出た『嫌われる勇気』(岸見一郎と古賀史健の共著、ダイヤモンド社)、現在発行部数80万部のベストセラーとのこと。80万部といえば、マンガ『孤独のグルメ』と同部数だな。誰もが知っているというレベルとは思わないけど、結構な人気ではある。まず書名が日本人受けして売れてる感じ。でも「哲人」と「青年」の対話形式というのは、何だかベタだな。読みやすいけどね。以下は「哲人」の言葉からのメモです。

人生の意味とはなにか? 人はなんのために生きるのか? ある人からこの質問を向けられたとき、アドラーの答えは「一般的な人生の意味はない」というものでした。
アドラーは、こう続けています。「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。

自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。
他者の視線を気にして、他者の顔色を窺いながら生きること。他者の望みをかなえるように生きること。これは非常に不自由な生き方です。
では、どうしてそんな不自由な生き方を選んでいるのか? 要するに誰からも嫌
われたくないのでしょう。

アドラー心理学では「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と考えます。つまりわれわれは、対人関係から解放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。しかし、宇宙にただひとりで生きることなど、絶対にできない。

「自由とはなにか?」の結論は見えたも同然でしょう。すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。
嫌われる可能性を怖れることなく、前に進んでいく。それが人間にとっての自由なのです。

アドラー心理学は、勇気の心理学です。あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ〝勇気〟が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。
幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれます。その勇気を持ちえたとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。

・・・思い浮かぶのは「人生、勇気が必要だ~」の水戸黄門主題歌。あれこれ言い訳してないで、他人からどう思われても構わないから、まず自分を変える勇気を持てと。今の世の中、「自己チュー」の人が増えている気がするけど、やっぱり大多数は「空気を読む」人で、この本はその大多数の人を元気づけているのかな。

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2015年11月 3日 (火)

小早川、裏切りに迷い無し

「関ヶ原合戦」の不都合な真実』(安藤優一郎・著、PHP文庫)に、小早川秀秋の裏切りは開戦とほぼ同時だったと記されているのを見て「ひょえ~」と思った。そればかりか、開戦時刻は定説の朝8時ではなく10時、西軍は2時間程度で壊滅したという。同書は最近の研究を一般向けにまとめた文庫本という感じなので、これはそもそも誰の説なんだろうと、多くの参考文献が示されている『こんなに面白いとは思わなかった!関ヶ原の戦い』(渡邊大門・著、光文社知恵の森文庫)も参照して調べてみると、白峰旬という先生が本(『新解釈 関ヶ原合戦の真実』宮帯出版社、2014)を書いたものと分かった。

通説では慶長5年(1600)9月15日、秀秋は戦いが始まってから午前中は東軍西軍どちらに付くか迷っていたが、昼頃に徳川方から催促の鉄砲が撃ち込まれたのをきっかけに裏切りを決断し、大谷吉継陣に攻め込んで、西軍は総崩れになったとする。しかし白峰先生の本によると、これは江戸時代の軍記物の記述を元にしたもので根拠は無く、一次史料のみから読み取れるのは、小早川は巳の刻(午前10時頃)の開戦後すぐに裏切り、石田三成方は短時間で敗北した、という事実である。関連する一次史料として挙げられているのは、「(慶長五年)九月十七日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署状写」、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』など。

どうやら、小早川君は最初から東軍としてやる気まんまんで松尾山に布陣したものと見える。小早川の進出は、先に着陣していた大谷隊の脅威となり、西軍主力は大垣城を出て、急ぎ関ヶ原に向かう。そして当日は現地で態勢がまだ整っていなかったところを、小早川の大軍に一気に攻められて、あっという間に崩壊しちゃった。みたいです。

戦いがあっけなく終わってしまったので、後世の軍記物はあれこれ話を盛ることで面白く仕立て上げたと。まあ面白おかしい話を一概に否定するものではない(今の「歴史ドラマ」もそんなもんだろうし)けれど、とにかく歴史研究は一次史料の批判検討が基本だから、これからも根拠の曖昧な「通説」はどんどん見直されていくのだろう。

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2015年11月 1日 (日)

吉川広家陣跡

今秋のJR東海さわやかウォーキングは、「家康公400年」ということで関連コースを多数設定。本日開催の「家康」ウォーキングは、関ヶ原駅を出発して古戦場の中心から東に向かい、中山道を進んで地元の市民まつり「ふれあい垂井ピア」にも立ち寄りながら、垂井駅に至る約12.1㎞のコース。

関ヶ原の西軍陣地、東軍陣地は何度か歩いたことがあるけど、今回のコースに含まれていた徳川家康の桃配山陣地のほか、山内一豊、浅野幸長(よしなが)、池田輝政、吉川広家の各陣跡は、いずれも自分は初めて訪問する場所でした。

特にどんな場所なのか興味を持っていたのは吉川広家の陣地。まあ実際の現地は空き地に看板と旗が立っているだけなんですが。

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西軍に属する毛利陣営の吉川広家は、親しい間柄の黒田長政を通じて東軍との和睦を画策。戦闘不参加も約束して、これで毛利家は安泰と信じていた。
決戦当日、家康の背後を突くこともできる場所に毛利軍は布陣していたが、最前列の広家の部隊が何のかんのと理由を付けて動かなかったため、毛利軍は陣地に釘付けにされたまま、戦いは東軍勝利に終わった。
戦後、西軍の「総大将」毛利輝元の責任を重く見た家康は、いったんは毛利家取り潰しの方針を打ち出す。広家は愕然としただろう。本家存続を必死に訴える。家康も考え直して、広家に与えるはずだった周防・長門2ヵ国を毛利の所領とすることに決着。毛利家は120万石から30万石の大名に成り下がり、広家は岩国3万石の領主に収まった。

凋落はしたが、とにかく存続した毛利の長州が、260年後には徳川幕府打倒に向けて走り出すのだから、何にせよ吉川広家の行動は後世に大きな影響を及ぼした、と思うと歴史の妙を感じる。

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