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2015年8月25日 (火)

アルゴリズム取引の恐怖

日経新聞本日付電子版のコラム記事「株式市場の構造変化を映す超乱高下」(豊島逸夫)からメモする。

ニューヨーク証券取引所(NYSE)といえば、トレーディングフロアの騒がしさが想起される。しかし、今や取引所の心臓部はニューヨーク郊外のニュージャージーにあるデータセンターだ。ビル内にはスーパーコンピューターが整然と並ぶ。
24日、NYSEの寄り付きでダウ平均が1000ドル以上急落する現象が生じた所も、実はマンハッタンではなく、ニュージャージーだった。フロアでの売買はもはや形骸化し、ショータイム(見せ物)などと呼ばれている。

アジア・欧州と株急落が連鎖し、ニューヨーク市場のオープニングも急落確実な状況だった。そこで、100分の1秒でも早く売り注文を集中的に出そうと高速度取引トレーダーたちが動いたのだ。その結果、株価が200~300ドル急落すると、自動的に多くの「損切り」注文が実行され、相場の振れを増幅させる。売りの連鎖で1000ドル以上下げたところで、一部のアルゴリズム取引のコンピュータプログラムが、割安感から「逆張り」の買い注文を発した。そこで、相場は1000ドル近く急反発。その後も瞬間的に100ドル刻み程度の乱高下を繰り返し、前日比588ドル安で引けた。
この市場の騒乱について中国経済や米利上げなどの後講釈で説明を試みてもむなしい。

実はニューヨーク市場が寄り付く30分ほど前に、最初の異変が為替市場で生じていた。円相場がほぼ瞬間的に1ドル=120円台から116円台まで円高に振れたのだ。この現象の背景もやはり、アルゴリズム取引である。

このような効率性を追求した結果の市場の構造変化が果たして健全といえるだろうか。
米国で高速度取引規制論が生じるのも当然と思ってしまう。

先進国の株式市場も、乱高下する上海市場を「初心者集団のカジノ」などと揶揄できなくなった。
パニック売りなどといわれるが、人間の手を離れ、相場を主導するコンピューターに感情はない。自然な沈静化を待つのか、機械的な売りの連鎖を官の手で断ち切るのか。

・・・集団心理による売買も、心理とは無縁に見える機械的売買も、どっちも相場の乱高下をもたらす要因になるというのは何とも皮肉な話だな。

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2015年8月23日 (日)

ノストラダムスと「オウム世代」

村上さんのところ』(新潮社)は、読者からの質問メール473通に対する村上春樹の回答が収められた本。実に雑多なと言って良いくらいの多種多様な質問が投げかけられている中で、オウム真理教絡みの質問回答に自分の関心が向いた。

読者の「村上さんは、オウム真理教による地下鉄サリン事件の実行犯の世代(大体、現在の40代前半から50代後半)をどのような世代ととらえられますか」との質問に対して、作家は以下のように答えている。

オウム真理教の信者・元信者の人たちをインタビューしてきて、ひとつ思ったのは「ノストラダムスの予言」に影響された人がけっこう多かったということでした。その世代の人たちがいちばん感じやすい十代のころに、「ノストラダムスの予言」についての本が大ベストセラーになりました。そしてテレビなんかでも盛んに取り上げられました。1999年に世界は破滅するという例の予言です。そのおかげで「終末」という観念が、彼らの意識に強くすり込まれてしまった。

だから麻原彰晃の説く終末論(ハルマゲドン)がすんなりと抵抗なく受け入れられたのでしょう。そこにはまた「スプーン曲げ」に代表される、「超能力」に対する憧れ・信仰のようなものもありました(そこにもまたテレビの影響が見られます)。

・・・こう言われると、確かに自分も「オウム世代」の一員だなとしみじみ自覚する。五島勉の『ノストラダムスの大予言』が出たのは1973年。タイミング的には石油ショックが起きて世の中に先行き不安感も漂っていた頃で、「1999年7の月、人類滅亡」を唱えた書物は、たちまち大ベストセラーになった。自分は当時中学2年生だったが、あと25年程度で人類が滅亡すると言われて(何しろまだ14年しか生きてなかったせいもあるのだろう)、充分ありうると思ったのを覚えている。そうでなくても公害やら資源枯渇やら第三次世界大戦やら、人類滅亡のネタはいろいろ言われていたこともあるし。

同じ頃、超能力も流行っていたよなあ。UFO、超常現象、未確認生物などなど、70年代の日本テレビが主導していたオカルトの世界。これはまさに自分の十代に重なる。

最初はもろもろの切実な動機があって人は「宗教」に関わるとは思うのだが・・・それこそ当時のギャグバラエティ番組「ゲバゲバ90分!」に出てくる「ある異常な集団に起こった普通の出来事」じゃないけれど、人間の集団、特に「教団」はヤバいところがあるなと思う。

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2015年8月15日 (土)

映画「天皇と軍隊」

映画「天皇と軍隊」は、パリ在住の渡辺謙一監督が手がけたドキュメンタリー。元々はフランスの放送番組(90分)として2009年に制作されたもので、日本公開は想定していなかったが、配給者側の働きかけにより今回の上映が実現したらしい。と言っても、今月中の上映スケジュールは東京(終了)、横浜、名古屋それぞれ一館、一週間、一日一回のみという超限定公開。とりあえず土日に行くしかない自分は、終戦記念日でもある本日、「横浜ニューテアトル」の公開初日(監督挨拶あり)の上映を観た。なお、東京「ポレポレ東中野」は10月の再上映を予定している。

映画は冒頭、ロラン・バルトの「この都市には空虚な中心がある」という言葉から始まり、過去と現在の映像、そして政治家や学者などのインタビューを織り交ぜながら、マッカーサーと昭和天皇、憲法第1条と第9条、東京裁判、日米安保、靖国参拝などのテーマが次々に語られていく。そして最後に置かれるのは、終戦直後の広島における天皇巡幸の場面。監督が、小熊英二の著作『〈民主〉と〈愛国〉』表紙カバーにインスパイアされて探し出したという映像だ。(天皇を大歓迎する群衆、遠くに見える原爆ドームという構図には、微かな困惑にも似た何となく落ち着きの悪い微妙な気持ちになる)

上映終了後の監督のスピーチでは、東京裁判は天皇免責を抜きにしては語れない、との話があった。この作品は、もともとの制作意図から「教科書的」に作られているわけだが、もし監督の作家性を押し出したならば、より「天皇免責」を強調した作品になったのではないかと思われた。

さて作品タイトルである「天皇と軍隊」が意味するのは、憲法1条と9条である。「天皇制の存続は戦争の放棄を代償として保障された。憲法1条と9条はコインの表と裏だ」とナレーションされるように、おそらく本来は1条と9条はセットで考えるべきものなのだろう。作られた当初の憲法は、映画の中で政治家の中川昭一(故人)が述べる「占領軍が作った占領下における、憲法という名の占領のためのルール」という性格を負わされていたのは否定できないと感じる。そう考えれば、サンフランシスコ講和条約後も日本は「準占領体制の継続」(樋口陽一・法学者)を受け入れたのであり、憲法と自衛隊及び安保条約との齟齬を抱えたままやってきた「戦後体制というのは欺瞞」(木村三浩・右翼団体代表)だという見方も、頷けるものがある。

しかし戦後70年という時間が過ぎて、今では憲法1条も9条も殆ど形骸化している感じはあるけどね。

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2015年8月11日 (火)

「お詫び」より「懺悔」の気分

このところ当然のようにテレビでは戦争関連の番組が目に付いて、いくつか眺めてみたのだが、「特攻」や「原爆」の話には気が滅入るばかりだった。

1945年夏、アメリカのトルーマン大統領は始めから原爆の使用ありきで行動する。ポツダム会談の開催を6月から7月へ引き延ばし、核実験の成功と共に日本への原爆投下を決定。ポツダム宣言を日本が簡単には受け入れられない形で発表し、「予定通り」日本が宣言を無視したところで原爆投下を実行。ソ連に対して自らの優位も示すなど、国際政治の冷酷な駆け引きの中で、広島・長崎20万の命は失われた。日本は日本で、この期に及んでも手前勝手な妄想の中にいた。軍の中枢部は、本土決戦で一億総特攻、敵に甚大な損害を与えてから講和に持ち込むという、冷静に考えればほぼ不可能な「作戦」を描いていた。例えば練習機をかき集めて特攻に使うというのだから、もはや正気ではない。70年前、日本人はこんなにも愚かだった。ああ、気が滅入る。

本日付日経新聞コラム「春秋」には共感する部分があった。こんな意見だ。

安倍首相が戦後70年談話を14日に出す。「侵略」や「お詫び」などアジア諸国に向けた文言が焦点だが、注文するなら、無謀な戦線拡大や本土への相次ぐ攻撃を止められず、国と国民を存亡の危機に立たせたことへの言及が欲しい。愚かな政策は繰り返さないという決意表明だ。安保政策の転換点に、意義あることと思う。

・・・歴史に向き合う時、自らの愚かさを悔い改める、いわば「懺悔」の態度が求められるのではないかと思う。日本は外に向けて「お詫び」するよりも、内向きに「懺悔」する姿を外に見せる方が、反省の心をより強く伝えるものになるかも知れない。

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2015年8月10日 (月)

東芝の「粉飾決算」

東芝の「不適切会計」って「粉飾決算」だよなあ・・・と思っていたら、「週刊SPA!」(8/11・18号)の中に同じ意見を見つけたのでメモ。ジャーナリスト須田慎一郎の文章です。

そもそも、大手紙やテレビは「不適切会計」などという表現に固執しているが、これは明らかに粉飾決算であり、上場廃止が検討されて当然の事実だ。
この問題を起こしたのが東芝ではなく中小企業であれば、メディアも遠慮なく粉飾決算と報じているだろう。さしずめ、各テレビ局は重要なスポンサーである家電大手に遠慮し、新聞も経団連の主要企業である東芝を厳しく書けば今後の取材がしづらくなると懸念しているのだろう。

東芝に甘いのはメディアだけではない。仮に、東芝が上場廃止になれば市場に与える影響は大きく、上向きかけた株高ムードに冷や水を浴びせることになるのは目に見えている。そのため、東証は完全に腰が引けており、粉飾発覚直後から東芝の要望を聞き入れて、有価証券報告書の提出期限を8月末まで延長することを早々と決めてしまったのだ。

さらには、マーケットの違法行為を取り締まるべき金融庁までが、グルになっている疑いがある。有価証券報告書の提出期限というものは「法定期限」である。つまり金融庁は、東芝の都合に合わせて法律がねじ曲げられるのを、見て見ぬふりをしているのだ。

・・・メディア、東証、金融庁、これに監査法人も加えて、「大人の事情」が横行するニッポンの企業社会。4年前に不正決算が発覚したオリンパスも結局上場廃止にはならなかったし、今回の東芝問題も、何だか釈然としない気分が残るまま、いっさいは過ぎていきそうな気配。

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