イスラームの「聖戦」と死生観
今週の「週刊東洋経済」(3/28号)掲載、イスラーム学者の中田考・同志社大学客員教授のインタビュー記事からメモする。
(ジハードについて)
聖戦という訳は正確ではない。イスラームの文脈では宗教のために努力する、戦うという意味が正しい。
イスラームの意味は神に帰依、絶対服従することだ。ムスリムとは神に帰依している人間だ。しかし今のムスリムたちが神に絶対服従しているかというと、怪しい者がたくさんいる。
そういう場合、キリスト教には聖職者がいて誰が信者か決め、破門することもできる。
ところがイスラームはそうではない。そもそも信徒だと決める人がいない。教義を決める機関もない。イスラームは基本的に信徒一人ひとりが神に直接向き合い、他者の内心の信仰には干渉しない。しかし、今のシリアやイラクの政府はイスラームからの逸脱がいくら何でもひどすぎるだろう、もはや彼らはムスリムではない、と厳しく問い詰める人たちがいる。そうならば自分たちはイスラームの理想の実現のために異教徒に堕した背教者たちと戦っているのだからジハードだ、ということになる。
(神の前の平等について)
イスラームの場合は法を定めることができるのは神だけであり、国家は神が定めた法の執行機関にすぎない。
法の下の平等より重要なのは神の前の平等だ。つまり、創造主と被造物の無限の隔たりに比べると人間の間の相違など無に等しい。金持ちも貧乏人も同じ神の奴隷であり、死ぬときは持っているものすべてを手放さねばならない。最終的には「最後の審判」で裁かれる。今生は苦しくとも来世が本当の生であって、フェアプレーで頑張っていれば、全知全能のアッラーが来世で公平に報いてくださる。そういう意味の平等だ。
・・・自分がキリスト教やイスラムを信じることはないだろうが、この世界では、一神教の論理を理解しておく必要はあるのだとつくづく思う。
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