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2015年3月14日 (土)

「ニューアカ」のピケティ批判

80年代「ニューアカ」の巨匠がピケティを批判する――雑誌「新潮」4月号掲載の「現代思想の使命」(浅田彰×中沢新一×東浩紀)からメモ。

浅田:そもそも、原書が出たとき読んで呆れたけれど、ピケティの本の『21世紀の資本』というタイトルは詐欺ですよ。マルクスの『資本(論)』は、正しいかどうかはともかく、資本主義のメカニズムを原理論的に分析し、それを超克する方向を示す本でしょう。他方、ピケティは、手広く統計を集め、資本主義のもとで戦時中を除けば格差が増大する傾向にあるということを現象論的に示しただけで、その裏側にどういうメカニズムがあるのかという分析もなければ、資本主義をいかに乗り越えるかというヴィジョンもなくて、富裕税によって資本主義の偏りを補正するというだけ。

中沢:僕もピケティの本は翻訳される前に読みましたが、まあ飽きました。同じことの繰り返しが続いて、最初と最後の結論が同じ。これは資本主義の本質じゃないな、と感じました。
「19世紀の資本」であるマルクスの本と「21世紀の資本」であるピケティの本の一番大きい違いはどこかというと、マルクスには「唯物史観」というものがあることです。マルクスは我々が生きている資本主義の世界は歴史的に形成された一過性のものであるという認識にたって、それはどうやって形成され、どういう必然性をもって変わっていくかというのを描いた。それが「唯物史観」です。だけどピケティの本はマルクスの「唯物史観」にあたるものがない。
いま、僕らが欠いているのは、グローバル資本がどのように形成され、世界を支配し、解体していくかというのを考える知性です。「自然史過程」としてのグローバル資本という問題をとらえる努力を怠っていて、ピケティのように資本主義の内部情報の処理だけでやっていく、近代主義的とも言える知性形態がもてはやされる。

浅田:マルクスには自然史過程にまで遡る「唯物史観」があったのだけれど、マルクス主義を中心とする旧左翼はそれをアクチュアルな階級闘争の問題に還元し、社会民主主義はそれをさらに再分配の問題に矮小化してしまった。そして、68年から89/91年を経て、再分配より承認の方が大事だということで多文化主義が支配的になり、そこで唯物論から観念論への重心移動が生じた。コミュニケーションにおいて他者を承認すること、他者と対話し共存することはもちろん結構なことだけれども、それを言うだけではうまくいかないという現在の問題は、唯物論的に言えば当然のことなんですね。

:いずれにせよ浅田さんも中沢さんも、ピケティとは違い、いまの資本主義の中では再分配で問題が解決するとは思っていない。なんらかのオルタナティブ、あるいは資本主義の外部を考えることが必要で、それが思想の使命であるだろうという点は一致していると思います。
しかし問題はその「外」が何かということです。その「外」が具体的に示されなければ、思想も運動もただの掛け声で終わってしまう。

・・・肝心なのは、資本主義の「外」を原理的に考えて具体的に示すこと。しかしそれも今や「不可能の可能性」を考えることに近いのかも知れないが。

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