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2015年2月25日 (水)

『フランケンシュタイン』

今月のNHK・Eテレ「100分de名著」が取り上げたのは『フランケンシュタイン』。メアリ・シェリー作、19世紀の小説。フランケンシュタインは怪物の名前ではなく、怪物を作り出した若き科学者の名前であることは承知していたが、その怪物がおのれを語り、熱心に読書するというのは全く意外だった。まず以下に「テレビテキスト」、番組講師である廣野由美子先生の解説から引用。

怪物は書物を読むようになります。たまたま森で拾った鞄に――このあたりは少しご都合主義的な展開ではあるのですが――、プルタルコスの『英雄伝』や、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』、ミルトンの『失楽園』が入っていたのです。怪物はそれらを熱心に読み、自分なりの解釈をして、知識と思考能力を高めていきます。なかでも『若きウェルテルの悩み』には、心を揺さぶられます。

・・・ということで、「ウェルテル」に感動する怪物ってどんな奴なんだろうと、作品(新潮文庫の新訳)をざっと読んでみたのだが、どうもストーリーが全体的に「ご都合主義的」な流れという感じもした。特に怪物の神出鬼没性とか、その怪物が最初の殺人を犯す巡り合わせとか。

怪物は醜さゆえにヴィクター・フランケンシュタインに見捨てられ、遭遇する人々にも敵視される。怪物はおのれの孤独に激しく悩み、「生みの親」への復讐を開始。ヴィクターは親友、妻を怪物に殺され、絶望的な孤独に突き落とされる。そこからヴィクターは報復を決意し、怪物の行方を追う。今度はヴィクターが怪物の境遇と行動を生きる格好になる。そして追跡行の果てに、北極海の船上でヴィクターは力尽き、その死を見届けた怪物は自らの滅亡を予告して北極海の氷上へ飛び移り、そのまま波に運ばれて闇の中に消えていく。

これは「創造主」が、ほかならぬ「被造物」に罰を与えられる物語なのかも知れない。あるいは無責任な「創造主」と出来損ないの「被造物」の葛藤が生み出す悲劇というか。とはいえ、ヴィクターの「没落」は自業自得という感もある・・・しかしメアリ・シェリーは19歳でこの作品を書いたのか、天才だよなぁ。

でも誰にも受け入れられない孤独の哀しみ、自己の生への絶望的な懐疑、ということで言えば、「妖怪人間ベム」(はやく人間になりたい!)や「アシュラ」(生まれてこなければよかったギャア!)の方が僕にはインパクト強いかもです。(苦笑)

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2015年2月23日 (月)

アベノミクスに頼らない投資

アベノミクスに「それほどの期待はしない」と言うのは、長期投資ファンドを主宰する澤上篤人氏。日経新聞電子版2/22付の記事(「古くささ」引きずるアベノミクスは期待薄)から以下にメモする。

アベノミクスでもどんな政策でもそうだが、株式市場では決まって大騒ぎするものの、実のところは目先筋、つまり短期投資家とマスコミの話題でしかない。われわれ長期投資家は、そもそも政策などに期待もしていない。何しろ株式投資は個別企業の将来業績を丁寧に分析して、安いと思えば買うだけのことなのだから。 

まずアベノミクスで「第3の矢」に当たる成長戦略が、いまいちパッとしない。具体性を欠くとか官僚の作文の域を脱しないとか、いろいろ言われている。
成熟経済となって久しいのに、いまだに日本では国があれこれ関与しすぎである。
早い話、成長戦略など国の言うお題目にすぎない。いつの時代でも、新しいビジネスを創出して事業を拡大するのは、民間の仕事と決まっている。

国が本当にすべきなのは、徹底的な規制緩和で役所の関与を削ぎ落とすことと、大幅な減税の2つに尽きる。企業や個人が自由にビジネス拡大の創意工夫を凝らし、持てる力をフルに発揮できる環境を整えることだ。

ともあれ2015年も、日本株市場は上昇トレンドをたどろう。さはさりながら日本の財政に黄信号が灯ったりで、一時的な株価の大暴落といった展開も十分あり得る。その局面では、国債暴落や長期金利の上昇に耐えられない企業は株価ともども脱落していこう。

一方、日本の1億2710万人、世界では72億人の毎日の生活に照準を合わせてビジネス展開している企業を厳選して長期投資するのであれば、何の心配もいらない。そういった企業の株価は一時の大暴落があっても、すぐにV字型の急上昇をみよう。

・・・「異次元の」金融緩和も「機動的な」財政出動も、所詮は当たり前の景気対策の範囲を出ない。成長戦略も、これまで自民・民主を問わず歴代の政権が取り組んできたはずなのに、見るべき成果は乏しかったとすれば、成長戦略とは成熟国家の悪あがきにすぎない、のかも知れない。規制緩和や減税、要するに「小さい政府」の実現は日本では絶望的にも思える。ならば株式投資の観点も、政策期待よりは結局、個別企業の将来性に着目するしかない。ということになる。

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2015年2月17日 (火)

ROE数値目標化の倒錯

自己資本利益率(ROE)は、株主の出資である自己資本に対する、当期純利益の比率。数値が高ければ「良い企業」ということだが、数値だけに注目するのはROEの正しい扱いとは言えないだろう。本日付日経新聞「経済教室」(財務戦略より利益拡大を)は、宮川壽夫・大阪市立大学教授の寄稿。以下にメモする。

ROEはモノサシにすぎず、目的ではない。株式会社の目的は企業価値の最大化だ。

資本構成を変えても、企業が獲得する将来のキャッシュが増えない限り、企業価値の創造は起こらない。これが原則だ。

ROEは売上高利益率、総資産回転率(売上高/総資産)、財務レバレッジ(総資産/自己資本)に分解される。筆者が分析したところ、ROEに影響を及ぼすのは売上高利益率がほとんどで回転率やレバレッジの説明力は極めて低い。

ROEを改善するうえで財務戦略の工夫や資産のリストラは引き続き必要な条件だ。しかし、それ以上に売上高利益率という本業のビジネスモデルへの対応が根本的問題といえる。
ROEは、それを高めるための具体的な事業戦略なしに経営目標とするには単純にすぎる。

問題はROEが資本コストを上回っているかどうかにある。結論だけを示せば、株価モデルを展開すると資本コストとROEが等しい企業のPBR(株価純資産倍率)は1になることが証明できる。つまりPBR1倍割れはROEが資本コストを下回っていることを意味する。
筆者の分析では、上場企業のうちほぼ60%がPBR1倍割れとなっている。逆説的だが、これは単に企業の努力不足という一点だけでは説明がつきにくい。ROEの多面的な解明が求められる。

・・・ROE向上実現に向けて取り組むべきは、まず本業の利益率改善。企業価値を高めるには、小手先の財務戦略ではなく、「稼ぐ力」の強化という基本に還るべし、だ。

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2015年2月15日 (日)

「イスラム国」の危険な挑戦

「文藝春秋」3月号、池上彰と佐藤優の対談(イスラム国との「新・戦争論」)からメモ。

池上:(「イスラム国」は)シリアとイラクに跨って国境線を無視した組織を作っていますが、これは、第一次世界大戦中に英仏露がオスマン帝国の領土分割を決めたサイクス・ピコ体制を打破したという解釈ができる。
彼らの目的はヨーロッパが勝手に決めた国境にとらわれず、自分の領土を広げたいということです。目標は、西はスペインから東はインドネシアまで、一時でもイスラムであったところは取り返したい。

佐藤:多くの人は、圧倒的多数のイスラムは平和愛好的で、過激なのはごく一部だといいますね。しかし、実際なぜこんなに過激な人が出てくるのか。宗教の構造自体に踏み込んでみた場合、特有の問題点がある。
「イスラム国」も、スンニ派の四つある法学派のうちハンバリー法学派に属しています。その特徴は、『コーラン』と『ハーディス』に全てが書いてあり、この中にしか真理はないということ。この二つの書に書いてある通りにやっていますと言われれば、信者は何となく納得してしまう。
池上:イスラム教徒の多くは平和を望んでいても、『コーラン』や『ハーディス』の片言隻句を取り出していくと、相当危険な論を作ることができるんですね。

佐藤:彼らの歴史の考え方は「進歩史観」でなく、「下降史観」です。社会は時間が経てば経つほど悪くなる。近代的な価値観はなく、昔ほどいいと考える。
池上:イスラムの今は堕落した世界で、ムハンマドの時代はすべて神の前で平等だったという理想を描く。その時代に戻ろうというのがイスラム復興運動であり、イスラム原理主義なのです。そもそも、彼らには「神の主権」という考え方がある。神様がすべてを作ったんだから、国民主権や民主主義なんておかしい、主権は神様が持つべきだと。その近代に挑戦する論理を「イスラム国」も上手く使っている。
佐藤:「イスラム国」が問題なのは、人類の普遍的価値に反する論理を世界に強要する、つまり「革命の輸出」を行っていることです。彼らは基本的人権をはじめとする現代の普遍的価値に挑戦しているのです。

・・・イスラム国の行動は、西欧が生み出した近代的価値観への挑戦にも見える。ただそれも結果的な様相であり、イスラム国は基本的には、イラク・シリアの混乱に乗じて勢力を拡大した原理主義的暴力組織でしかない。

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2015年2月11日 (水)

映画「おみおくりの作法」

TBS「王様のブランチ」で紹介されていた映画「おみおくりの作法」を観た(銀座シネスイッチ)。
一時間半、今時としては短めの映画を観終わった後、なぜかこれは日本人の感覚に合った作品だなと思った。イギリスの映画(監督はイタリア人)なのにね。

舞台はロンドン。主人公は中年の公務員、ジョン・メイ。ひとりで淡々と仕事し、生活する。彼が担当するのは、ひとりで亡くなった人の調査。故人の親類縁者を探し出して葬儀も行う。誰も参列しない時は彼ひとりで故人を見送る。手がけた案件の故人の写真は、アルバムに貼って大切に保存している。そんな彼が解雇を言い渡されて、最後の案件に取り組むというのが、映画のストーリー。イギリス各地に出かけて故人の関係者に会って話をし、葬儀の日取りを決めるまで漕ぎ着けたジョン・メイだったが・・・ラスト直前の展開は、これだと余りに淋し過ぎると言うか、感心しない話の作り方だなと、やや失望していたら、ラストでは目にじわ~っと涙があふれてくるのをどうしようもなかった。

主演のエディ・マーサンの人物造形がパーフェクトな印象。監督のウベルト・パゾリーニは製作・脚本も手掛けているが、実際にこういう仕事をしている人たちについての新聞記事を読んで、心を動かされたことが作品を作るきっかけになったという。

この世界では、僕の知らないところで知らない人が知らない仕事をしているのだな、と感じ入る。そして、たとえ見送る人がひとりもいなくても、一つの役目を果たした人生は称えられて然るべきなのだと、しみじみ思う。

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2015年2月 7日 (土)

クリティークはポジティブに

そもそも批判とはポジティブである、のだな――『危機を克服する教養』(佐藤優・著、角川書店)からメモ。

重要なのは、思想について語るとき、思想は基本的に解釈あるいは再解釈であることを踏まえておくということです。優れた人が書いたものには、必ず引用が明示されています。
どこまでが自分の考えであり、どこまでが人の考えかをきちんと区別するのは、思想においては重要なポイントになります。 

(ある引用が)ずっと続いているとしましょう。そして一行だけ、私も完全に同じ考えだと打ち出す。それでもう、引用は十分な価値があるわけです。一回対象にして、その上で賛成しているという立場を表明する。これがクリティカル、批判的な読み方なのです。 

批判、これは明治期にヨーロッパからクリティークという概念が入ってきたときの誤訳です。そもそもタニマチが歌舞伎の演技を見て、「なってねえ」と文句をつけるのが批判という言葉の原義です。 

クリティークとは対象としてそれを認識して、何らかの主体的な判断を加えるという意味です。そうすると意味のないもの、自分が完全に拒絶反応を示すものは、通常取り上げません。クリティークの圧倒的多数は肯定的です。 

どういうことか。批判のほとんどは、実は賛成している場合です。だいたいの批判は賛成か、その賛成に一部新しい考え方を付け加えたらいい、というものです。部分的にここは違うと思う、こうしたらより良くなるというのも、あります。全面的にそれを否定するというのは、批判の中の本当に極一部です。

・・・この「メモと感想」を記す小生のブログも、基本的にクリティークの態度をもって対象を扱っている、つもりです。

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2015年2月 6日 (金)

石油はまだまだ出る。らしい。

昔、そのうち石油はなくなるぞ、とか言われてた覚えがある。でも今も相変わらず石油は出ているなあ、とか思いつつ本日付日経新聞「ニュースな科学」の記事(「石油いずれ枯渇」どうなった)からメモする。

石油や天然ガスを「化石燃料」と呼ぶのは、大昔の動物や植物、プランクトンの死骸が地中深くの地層で分解され、圧力と高い温度の下で長い時間をかけてできたものと考えられているから。なかでも油田から得られるどろどろした液状のものが原油、気体の状態で存在するのが天然ガスだ。

石油のもとになる生物の死骸がとりこまれる「根源岩」、炭化水素が濃く集まった「貯留岩」、炭素水素が地表へ抜け出るのを防ぐ「帽岩」の3つの岩石がそろった場所を「炭化水素のトラップ」といい、化石燃料が存在するための条件とされている。

1990年代までは主に貯留岩にターゲットを絞り、石油や天然ガスを取り出してきた。今世紀に入ると、根源岩など従来は技術や経済的な問題で開発できなかったところを掘ることができるようになった。米国でのシェール革命もその一つ。

中南米など今まで手をつけなかった地域、海底など未開拓な場所も開発するようになった。国際エネレギー機関(IEA)によると、未開拓な場所に眠る石油の埋蔵量は現在確認されている量の推計4.7倍。技術革新が進めば需要を上回る供給量の確保はそう難しいわけでもなさそうだ。

・・・石油の可採年数(今の生産量で何年もつか)は50年。昔、「なくなる」って言ってた頃は30年だから、伸ばしてきているわけだ。開発技術の進歩も大したものだと思うが、あらためて地球資源の底知れぬ豊かさを感じる。地球って凄い。

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2015年2月 5日 (木)

バイト敬語は誤りでもないとか

日経新聞2/4付電子版記事(「よろしかったでしょうか」実は正しいバイト敬語)からメモする。

「よろしかったでしょうか」「お弁当のほう、温めますか」「1万円からお預かりします」――。ファミリーレストランやコンビニエンスストアなどの店員がしばしば使い、「バイト敬語」とも呼ばれるこれらの表現。「間違った日本語」などと批判されることが多いが、日本語の専門家に意見を聞いてみると、意外にも「間違いとはいえない」という声が目立つ。 

敬語に詳しい同志社女子大学の森山由紀子教授によると「よろしかったでしょうか」を「よろしいでしょうか」の誤りと断じることはできず、相手に直接YES・NOを迫るのを避けるという意味で「聞き手への気配りによって生じた表現」なのだという。 

「お弁当の方」という表現についても、日本語の歴史に詳しい二松学舎大学の島田泰子教授は「ピンポイントで対象を指さないことによって、丁寧な表現とする方法の歴史は古い」と指摘する。
また「1万円からお預かりします」は、1万円から「何を」預かるかを言わないので奇妙な印象を与えるが、「省略と考えれば間違っているとはいえない表現」(島田教授)だという。
 

日本フランチャイズチェーン協会の調査によると、ファミレスとコンビニの店舗数(直営店も含む)は90年代に急増しており、新聞紙上などでバイト敬語が批判されるようになった時期と重なる。ファミレスやコンビニの急速な普及に伴って、仕事に不慣れな若いアルバイト店員が増え、接客の場面でこれらの(敬語を過剰に使用したり従来とは違った使い方をしたりする)表現が頻繁に使われるようになったと考えられるわけだ。

相手への敬意を表すための敬語も、使い方によっては相手に不快感を抱かせることさえある。日本語というのは何とも難しい。

・・・上記の「敬語」のほかにも、「~になります」や「~させていただきます」とか、何かヘンだよなあと思われた言い回しも結局いまや割とフツーに使われていたりして、そういうものかと思いつつもやっぱり何か釈然としないんだけどね。

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2015年2月 4日 (水)

「気合インフレ率」、息切れ?

本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(「気合インフレ率」の限界)からメモする。

デフレ脱却を目指す異次元の金融緩和政策は、少なからず自己実現的である。論理ははっきりしないが、みんながそうなると思えばそうなる。デフレマインドは消え、期待インフレ率は上がるというメカニズムである。 

道具立ては2つ。揺るぎないインフレ目標の設定と、バズーカ砲と呼ばれるほどの大胆な量的緩和策である。異次元緩和スタート時に日銀は消費者物価上昇率を2年後めどに2%程度とする、と宣言した。バズーカ砲の核心は市場からの巨額の国債購入である。経済理論上、ゼロ金利の下で物価や実体経済にどれほど効くか懐疑的な声は当時も今も少なくないが、「インフレもデフレも貨幣現象である」というフリードマン流の理論が異次元緩和の基本的な哲学である。 

スタート当初、市場は動いた。円相場は急落し株式市場は急騰した。気合の効用である。さて、どこまで続くのだろうか。

先週末に発表した昨年12月の全国消費者物価上昇率は前年同月比で消費税増税分を除くと0.5%に沈んだ。昨年5月には1.4%まで上がっていたのが急激に低下している。原油価格急落が原因である。日銀は慌てて昨年秋に2発目のバズーカ砲を放ったが、気合の神通力はどうしても徐々に低下する。このほど来日したキング前イングランド銀行総裁も「金融政策も収穫逓減する」と語る。 

「2年後・2%」が自己目的化した日銀のシナリオは狂い始めている。期待インフレ率ならぬ気合インフレ率の限界である。

・・・気合だ、気合だ、気合だ~っ!(笑) ということで異次元緩和の開始から早2年、気合インフレ率も、どうやら息切れしつつある模様です。

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2015年2月 2日 (月)

えちぜん鉄道の試み

えちぜん鉄道の日経新聞記事(2/1付電子版)が目に付いた。えちぜん鉄道といえば、アテンダント(女性添乗員)さんだ。もう10年前になるが、転勤で名古屋にいたことがあり、日帰り旅行で福井の東尋坊や恐竜博物館に行った時、えちぜん鉄道に乗った。アテンダントさんを初めて見た時は、何だか妙な感じがしたものだ。何しろローカル線である。やっぱりコストが他人事ながら気になった。が、なかなか個性的な試みだな、とも評価した。自分も制服姿の女性にヨワいフツーの男だからである(何それ)。記事(えちぜん鉄道、「看板娘が添乗」で乗客増える)から以下にメモする。

沿線人口が減り、経営環境が厳しいローカル鉄道は多い。そのなかで乗客数が過去最高を更新したのが、えちぜん鉄道(福井市)だ。事故を起こして運行停止となった京福電気鉄道の福井県内路線を第三セクターとして引き継ぎ、2003年に運行を開始した。逆風にもめげす、住民目線のサービスで快走している。

福井県は自動車の世帯あたり保有台数が全国1位。沿線市町の高齢化も進み、乗客を増やすのは簡単ではなかった。そんな厳しい環境にあり、運行当初から首尾一貫、乗客の声に耳を傾けてきた。そのひとつがアテンダントによるサービスだ。

アテンダントは定員12人。全国にファンも多い。だが当初は導入効果には懐疑的な見方が多かった。「機械化しても大幅な人件費圧縮につながらないのなら、従業員の接客サービスを高めたほうが効果がある」。専務の伊東尋志はアテンダントを導入した経緯を打ち明ける。

沿線には43駅あるが、その半分以上を無人駅が占める。収益の規模が小さく、駅ごとの大型投資は難しい。アテンダントを配置すれば、高齢者など交通弱者の乗り降りを助けられるほか、切符を販売したり、観光客を案内したりできる。今ではアテンダントはえちぜん鉄道の看板娘となっている。

13年度の乗客数は前年度に比べて1.2%増の329万人と過去最高を更新した。社長の豊北景一は「マイカーの多さなど環境は厳しいが、あきらめずに取り組んできたことが実った」と話す。地域の足として沿線住民の声に耳を傾け、333万人の目標に向けて走り続けるという。

・・・アテンダントさんの他にも、福井市内の新駅開業、20駅に無料駐車場を設置して自動車から鉄道に乗り継ぐ「パーク・アンド・ライド」を推進、などの施策も実施。乗客から求められているであろうサービスの実現を常に目指す、えちぜん鉄道の「あきらめない」経営は着実に成果を積み上げている。

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2015年2月 1日 (日)

「フランス現代思想」の現在

「ポスト構造主義」以後の思想は、「言語論からメディア論へ」という方向で位置づけることができる、という。フランス現代思想史』(岡本祐一朗・著、中公新書)の第6章「ポスト構造主義以後の思想」からメモする。

ポスト構造主義以後の「メディア論的転回」として、まず最初に取り上げるべきはレジス・ドブレの「メディオロジー」の構想であろう。
ドブレは、今まで言語学・記号論が無視してきた「伝達作用」、「媒介作用」に着目した。というのも、「媒介作用こそがメッセージの性質を決定づけ、関係が存在よりも優位に立つ」からである。
現代のインターネットなどの情報技術の変化などによって「映像圏」が成立し、たしかに従来の印刷術にもとづく「文字圏」とは違った状況が引き起こされている。
「メディオロジー」の考えをきわめて単純化して言えば、人間の「信」(思考では「信念」、宗教では「信仰」、集団は「信頼」など)が、メディア(媒介装置)によって決定される、
ということにある。 

ドブレとともに、「メディオロジー」を提唱している、ダニエル・ブーニューによれば、記号論的-言語論的転回の後に、語用論的転回が続き、さらに現在はメディオロジー的転回が起こっている。
もし、〈フランス現代思想〉を、「記号論的-言語論的転回」としてだけ捉えるとすれば、すでに終わっていると言わなくてはならない。しかし〈フランス現代思想〉が、ブーニューによって示された三段階全体を含むとすれば、現在でも継続中なのであり、まさに新たな段階を迎えているのだ。

・・・この本の冒頭「プロローグ」の中で、著者は「西洋近代を自己批判的に解明する」態度を、フランス現代思想の「精神」と呼んでいた。フーコー、ドゥルーズ、デリダらは、この「精神」を共有していたということだが、「ポスト構造主義」以後の思想家たちは、この「精神」を継承しているのだろうか。あるいは、「近代批判の精神」は、もはや不要になりつつあるのだろうか。

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