« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »

2014年11月30日 (日)

デ・キリコの謎

先週、パナソニック汐留ミュージアムで開催中の「ジョルジョ・デ・キリコ展」に行き、今日の夜もデ・キリコをテーマとしたNHK「日曜美術館」(再放送)を見た。

デ・キリコ絡みの文章では、澁澤龍彦の「ニーチェ雑感」(1976年の「現代思想」臨時増刊・総特集ニーチェに所収)が、自分には印象深い。以下に一部をメモする。

ニーチェのイタリア体験ということを考えるたびに、私がほとんど反射的に思い出すのは、あの形而上学的絵画の創始者たるジョルジオ・デ・キリコの名前である。 

「ニーチェが発見したのは、気分(ドイツ語のシュティンムンク)に基づいた不思議な深遠な詩情、神秘的で無限な孤独であった」とキリコは書いている、「それは空が澄みわたり、太陽が低く沈みかけるので、影が夏におけるよりも長くなる、秋の午後の気分に基づいている」と。 

これは画家であるキリコのニーチェ観であると同時に、そっくりそのまま、自作の絵の雰囲気をみずから説明したものでもあるだろう。 

あの胸苦しいような不安と混り合った、奇妙に甘美なキリコ的世界の情緒は、いわば画家の青年時代のニーチェ体験と重なり合って形成されたのだった。 

実際、キリコの絵を眺めていると、私は、発狂の前の多幸症のニーチェが眺めたトリノ風景も、こんなふうな澄み切った憂愁につつまれた、幾何学的な明るさのものではなかったろうかと思いなされてくるほどなのである。 

ちなみに、キリコは決して発狂したわけではないが、彼が二十歳代のころに確立した巨匠としての名声を保ちながら、その後の五十年間、倨傲な孤独のうちに閉じこもって、美術史の上では死んだも同然の存在となっていることを考え合わせると、やはり何か、そこにニーチェと一脈通じる運命を見ずにはいられない。キリコもまた、若いうちに一種の多幸症を経験して、急速に没落したのだろうか。

・・・ヨーロッパを戦火が覆った1910年代。その時、デ・キリコは20歳代。極度に研ぎ澄まされた、いわば発狂寸前の精神状態の中から形而上絵画を生み出した画家は、その後古典絵画の中に安住の地を見出した。これはニーチェの生きた道、すなわち古典文献学者から出発し、やがて哲学の歴史を全否定する思考の果てに発狂した人生を、逆に辿ったようなものだと言えるかも知れない。

若きデ・キリコの形而上絵画。それは美術史上の奇跡と見ていいんだろう。しかし日本の展覧会に来る絵は大部分、古典絵画と新・形而上絵画なので、本当の形而上絵画を見たいと思ったら、やはりニューヨーク近代美術館に行かなきゃならんのだよなあ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年11月29日 (土)

基地と国家主権

ブックファースト新宿店で売上ランキング(社会)トップになっていた『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(矢部宏治・著、集英社インターナショナル)から、以下にメモする。 

「占領軍」が「在日米軍」と看板をかけかえただけ。本土は1952年の講和条約、沖縄は1972年の本土復帰によって主権を回復したことになっているが、実際は軍事的な占領状態が継続したということ。 

憲法九条二項の戦力放棄と、沖縄の軍事基地化は、最初から完全にセットとして生まれたものだ。憲法九条を書いたマッカーサーは、沖縄を軍事要塞化しておけば、日本本土に軍事力はなくてもいいと考えた。 

1959年の「砂川裁判」最高裁判決の影響で、在日米軍の治外法権状態が確定してしまった。最大のポイントは、この判決によって、「アメリカ政府(上位)」>「日本政府(下位)」という、占領期に生まれ、その後もおそらく違法な形で温存されていた権力構造が、「アメリカとの条約群(上位)」>「憲法を含む日本の国内法(下位)」という形で法的に確定してしまったことにある。 

「本土の日本人以外、世界中の人が知っていること」、それは、「外国軍が駐留している国は独立国ではない」という事実。 

憲法は、力の弱い国が強い国に立ち向かうための最大の武器。フィリピンは憲法改正で1992年に米軍を完全撤退させた。 

日本は第二次世界大戦における敗戦国だ。そもそも国連の本質は「第二次大戦の戦勝国連合」であり、冷戦下においてもその枠組みは維持された。 

敗戦国である日本やドイツを対象とする、いわゆる「敵国条項」は、すでに「死文化した」と言われながら、まだ国連憲章のなかに変わらず存在し続けているという厳然たる事実。 

ドイツは、長く苦しい、しかし戦略的な外交努力の末、米英仏ソの駐留軍はすべて1994年までに完全撤退。ついに本当の意味での独立を回復することができた。 

唯一、状況を反転させる方法は、憲法にきちんと「日本は最低限の防衛力を持つこと」を書き、同時に「今後、国内に外国軍基地をおかないこと」を明記すること。

憲法の正しい書き方がわからなければ、フィリピンを真似すればいい。敵国条項が障害となるときは、ドイツの歴史に学べばいい。

・・・「集団的自衛権」とかテクニカルな話に走らないで、取り組むべきは自主憲法制定、国家主権の完全な回復ということ。しかし、それをやり遂げるだけの胆力のある指導者が出てくるかと言えば、悲観的だけど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月22日 (土)

解散詔書、異例の完読

本日付日経新聞政治面「記者手帳」からメモする。

「衆議院を解散する。ぎょめ・・・・・・」。21日の衆院本会議で、伊吹文明議長が解散詔書を読み上げている途中に一部議員が万歳三唱を始めた。伊吹氏は場内が静まるのを待ってから「御名御璽、平成26年11月21日、内閣総理大臣安倍晋三」と完読すると、一言付け加えた。「万歳はここでやってください」。万歳三唱がやり直された。 

万歳六唱となった異例の事態に、伊吹氏は「国会でしっかり教えないといけない」と不満顔。ただ、衆院の事務局によると「解散する」と読んだ段階で万歳をするのが通例で、天皇の署名と押印を意味する「御名御璽」まで読んだ議長はほとんどいない。衆院議事録では、1953年の「バカヤロー解散」での大野伴睦議長ら2例のみだ。

・・・異例の万歳やり直しとなったけど、まずもって御名御璽(ぎょめいぎょじ)以下まで読む解散詔書の完読そのものが異例。さらに完読後に改めて「万歳してください」とわざわざ促すのも変な感じ。記事でも「そもそも万歳をする理由は不明確」と指摘されているように、万歳しなきゃいけない決まりがあるわけでもないので、余計なひと言に思える。

何だかすっきりしない場面を見せられたものだが、それも大義不明の解散らしい有り様ってことか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月19日 (水)

無意味な解散、無駄な選挙

日経新聞本日付電子版記事「政権選択なき衆院選、ゲームを壊した与野党の罪」から以下にメモする。

衆院選は何のためにあるのか。それは有権者が政権を選ぶためだ。定数1の小選挙区主体の選挙は、二大勢力による政権争いを促す。有権者が選んだ多数派から首相が指名され、内閣を組織する。良くも悪くも、これが統治能力をつくり出す今のゲームのルールだ。なのに、大義うんぬん以前に、自公連立以外の選択肢が示されない解散。その罪は与野党双方にある。

最大野党(の民主党)が過半数の候補者すら立てず、野党陣営をまとめて政権交代の受け皿を用意する動きも鈍い。これでは社会党が万年最大野党に安住し、自民党政権以外の選択肢が事実上、なかった1955年体制と変わらない。このままでの衆院選は首相の安倍晋三と自公連立の信任投票にならざるを得ない。

安倍は18日の会見で、増税方針の変更という「国民生活に重い重い決断をする以上、速やかに信を問うべきだと決心した」と力説した。ただ、時の内閣が経済状況を見て増税延期法案を国会に出すことまでは現行法の想定内だ。自公は衆参両院で多数を保持し、成立する公算も大きい。なのにいきなり解散するから「大義のない解散」と野党に批判の口実を与えている。

越年予算を辞さない年末の慌ただしい衆院選も、解散後の経済対策の強行も「解散権は首相の専権事項」でいつでも行使でき、すべてに優先するジョーカーだ、という永田町の俗説のなせる業だ。
ただ、「勝てば官軍」の思惑だけがむき出しの解散は、統治権力を創出する起点となる政権選択選挙のゲームを興ざめにしかねない。よりフェアで透明なルールを整備し、ゲームを面白くしなければ、有権者の投票意欲をかき立てるのは難しい。

・・・現状の「劣化した55年体制」(歴史学者の與那覇潤)における「自民党1強時代」の中で行われる衆院選は、有権者の目に意義のあるものとは見えない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月16日 (日)

アメリカ建国と「選民思想」

世界のしくみが見える世界史講義』(茂木誠・著)の「第5章 アメリカ合衆国を理解する」からメモする。

アメリカ独立戦争(1775~83)の中で出されたのが独立宣言です。独立宣言では、「われわれは以下のことを自明の真理と信ずる」として、次のような内容が語られています。「すべての人は平等に作られ、神によって一定の権利を与えられている。その権利というのは生命・自由・幸福の追求である・・・・・・」  

宣言に書いてある「すべての人は」という人の中に、黒人と先住民は入ってない。独立宣言で自然権を神に与えられたのは「すべての白人」なのです。 

イギリスは国教会ですが、アメリカに渡ったのはイギリス人の中でかなり特殊な人たちです。じつは、アメリカに入植した人たちの多くはカルヴァン派だったのです。
イギリスのカルヴァン派をピューリタンと言いますね。これは「purify(ピュリファイ=清める」から来た言葉で、文字どおり、清らかな禁欲生活をして、一切の邪悪なものを避けていくという考え方の人たちです。それゆえに、自分たちは神によって選ばれた民だという選民意識を強く持っています。自己犠牲の精神と選民思想は表裏一体なのです。 

カルヴァンの予定説を思い出してください。神に救われる人間と救われない人間は初めから決まっているのだと。
ここから先住民などの異教徒を排除する論理が出てくる。予定説が人種差別の思想につながってしまっているんですね。
(ピューリタンは)この大陸にキリスト教文明の国を築き、異教徒の野蛮人を追放して「purify」することが、神から受けた使命――マニフェスト・デスティニーである、と考えるのです。

・・・佐藤優も、カルヴァン派がつくった「自分たちは神様に選ばれたピューリタンである」という意識は、ユダヤ教の持っている選民思想とシンクロする、と指摘する。その意味でアメリカ人はユダヤ教にシンパシーを感じやすい、という(「週刊ダイヤモンド」11/15号)。何にせよ、「選民思想」で自己正当化した人間の集団は外から見れば大概、アブナイ人々の集まりだという感じがする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月14日 (金)

「イスラム国」解説(佐藤優)

今さらながら「イスラム国」って何じゃろか。「週刊ダイヤモンド」(11/15号)の「佐藤優が指南・宗教から読み解く国際ニュース」から、以下にメモする。

イスラム教には多数派のスンニ派と、少数派のシーア派があります。スンニ派はシャリーア(イスラム法)の解釈によって四つの法学派に分かれます。このうちハナフィー、マーリキー、シャーフィーの三学派は世俗の伝統や土地の慣習を大事にし、過激な運動はあまり出てきません。

問題なのは四つ目のハンバリー派。世の中の真理はクルアーン(コーラン)とムハンマド伝承集であるハディースに全て書かれており、その通りに行動すべきとする、いわゆる〝イスラム原理主義〟です。アルカイダ、タリバンなどイスラムの過激派は全てハンバリー派。そして今回のイスラム国も当然ハンバリー派。昨今できた組織ではなく、20世紀のムスリム同胞団(1928年~)を源流とする、イスラム原理主義の歴史を受け継いだ革命組織なのです。 

イスラム国の目的も、世界革命を起こして世界イスラム帝国をつくること。世界に国家はただ一つ。神はアッラーのみ。この世界を支配する法律はシャリーア一つ。それを指導するのは、ムハンマドの後継者であるカリフ(最高権威者)ただ一人だというものです。 

テロ組織が活動を継続するためには、「金」、指導する「メンター」、武器を製造する「技術部門」、「インテリジェンス」の四つが必要で、さらに外側でそれをサポートする「人民の目」があればなお強い。今のイスラム国はその全てが確保されているため、勢力はまだ広がるでしょう。 

イスラム国を弱体化させるために重要なのは、イスラム穏健派をサポートすることによって封じ込めていくこと。イスラム過激派を、キリスト教徒や無神論者など外部の人間がつぶすことはできません。米国はそのことを知っているから、今回の空爆は有志連合という形で、サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦、カタール、ヨルダンに加わってもらったのです。

・・・イスラム過激派は実に厄介だ。としか言いようがない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月 1日 (土)

『資本論』を読む意義

いま、『資本論』を読む意義とは何か。池上彰と佐藤優が、「アエラ」(11/10号)掲載の対談の中で語っているのでメモする。

池上:『資本論』はどういう本か。当時の資本主義の「本質」について書いた本です。マルクスは、社会主義革命は資本主義経済が高度に発展して初めて起きるものと考えていました。資本主義が発展すると社会が豊かになる一方、労働者は貧困に追いやられる。そこで労働者は団結し、革命を起こすと、こう考えたわけです。そのために資本主義について分析したんです。

佐藤:いま『資本論』を読むことにどんな意味があるかというと、この社会の構造の限界がわかるということです。世の中にいくつかある、役に立つ思想の一つです。

池上:高校の時『日本資本主義論争』という本を読み、講座派と労農派というのがあると知り、どちらが日本経済を分析するのに優れているのかと高校生なりに悩んで考えたところ労農派かなと思ったのですが。

佐藤:私の本の中で池上さんを労農派的だと書かせていただきました。講座派は、一言でいうと日本特殊論。日本の資本主義は特殊なシステムであって、絶対主義的天皇制があり、明治維新は市民革命ではなく封建制の強化であると。それに対して労農派は、明治維新を基本的にブルジョア革命(市民革命)だと捉えます。僕は、鎌倉孝夫さんという先生(宇野弘蔵の高弟)のもとで、『資本論』の読み解きを教えてもらいました。

池上:それはすごいですねえ。革命は関係なく、資本主義はなぜ存続できるのかと、資本主義の内在的理論を解明したのが宇野理論です。いまこの時代に宇野派的に『資本論』を読むことによって、資本主義がどういうメカニズムなのかということを理解できます。つまり現代においては『資本論』を学ぶことで、いまの資本主義社会を、自分が生きている社会を、相対化する力を与えてくれると思うんです。

佐藤:『資本論』を読むと、いまの価値観から脱出することができる。競争や出世を良しとする資本主義社会の価値観から抜け出す理論的基礎をつくることができます。

・・・社会の大勢の価値観に捉われずに生きることは大事だと思う一方、個人レベルで社会を相対化するだけでは、社会全体はなかなか変わらないよな、とも思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »