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2014年8月 7日 (木)

石谷家文書と本能寺の変

先日、新発見の史料として発表された石谷(いしがい)家文書。その中の長宗我部元親書状(明智光秀の家臣、斎藤利三宛て)と「本能寺の変」との係わりをどうみるか。雑誌「歴史街道」9月号の記事から、歴史作家・桐野作人の意見を以下にメモする。

両者(織田権力と長宗我部氏)の関係は天正九年(1581)末頃まで比較的良好に推移したと考えられている。変化が生じたのは翌十年に入ってからである。そのきっかけはふつう、同年5月7日、信長が三男神部信孝に宛てた朱印状だとされ、いわゆる四国国分令(くにわけれい)と呼ばれている。その内容は讃岐を信孝に、阿波を三好康長に与えるといったもの。元親に対しては本国の土佐の安堵さえ保証されない厳しい内容に見えた。 

当然、元親は我慢できなかったはずである。
ところが、元親は阿波中部から南部に位置する一宮・夷山・畑山・牛岐などの諸城を明け渡して信長の朱印状に従うと利三に伝えている。
もっとも、元親は本音と建前を巧妙に使い分けているのではないだろうか。信長の圧倒的な矛先を避けるためにとりあえず恭順の意を示した。ところが、殊勝な態度をとりながら、元親は土佐の国境に近い海部と大西の両城を緩衝地帯として確保させてほしいと訴えている。
 

書状は元親の単純な恭順論ではなく、信長の命令に表面上は従うとしながらも、両城の確保という例外を認めさせる条件闘争に転じていると見るべきではないだろうか。 

じつは素朴な疑問が残っている。書状の日付の問題である。
5月21日は、本能寺の変のわずか十日前である。元親がこの書状を土佐の岡豊(おこう)城で書いたとするなら、利三は居城の丹波黒井城か近江にいたかどうか不明だが、瀬戸内という海を隔てて土佐から十日間で届くのは時間的に無理かもしれない。
 

そうであれば、書状は光秀=利三の謀反という決断にはほとんど影響を与えなかったかもしれないともいえる。 

いずれにせよ、今回の石谷家文書は非常に重要な史料であることは否定できないものの、本能寺の変の真相解明という観点からは、かえって謎が深まった面もあるといえそうである。

・・・この書状の発見は、本能寺の変の真相を明らかにするとまでは言えないにしても、「四国問題」が変の背景としてかなり強く作用した、という推測を補強することになるのではないか。

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