「ウィーン包囲」の映画
映画「神聖ローマ、運命の日」は、17世紀のオスマン帝国のウィーン包囲を描いた作品。以下に、プログラムの解説コラムからメモする。(寄稿者は菊池良生・明治大学教授。ハプスブルク分野ではお馴染みの先生)
1683年のことである。
この時、トルコはバルカン半島を制圧し、さらにはハンガリーのほぼ3分の2を手中にしている。残るはいよいよウィーン。ルイ14世からフランスの中立の約束を取り付けたスルタンは、大宰相カラ・ムスタファに30万の軍隊を与えウィーンを包囲させた。7月早々のことだ。世に言う第二次ウィーン包囲である。(第一次は1529年)
13世紀以来、ウィーンを城下町として膝下に押さえ、15世紀からは神聖ローマ皇帝(ドイツ王)位をほぼ独占してきたハプスブルク家はこの時、苦境にあった。
ドイツ30年戦争(1618~48年)の敗北で、皇帝家ハプスブルク家の権威は地に落ちていた。神聖ローマ帝国(ドイツ王国)はドイツ諸侯の分権支配にあった。それをハプスブルク家は、この戦争を通じて一元的中央集権体制に衣替えしようとしたのである。しかしそれはものの見事に失敗し、ドイツのグロテスクなまでの分裂が固定化した。
戦後、フランスが超大国となり、ハプスブルクは今やトルコの脅威にさらされているのだ。
しかし、こうなると神の摂理が働くものである。神の見えざる手が、あまりにもフランスに振れすぎた振り子を少し戻すのだ。
まずはドイツ300諸侯。もともと分権支配なのだから、帝国には全国的徴税システムなどはありはしない。ところがプロテスタント諸侯も含めて、ドイツ諸侯はトルコ税(対トルコ戦軍事費)だけは徴収に応じるのだ。
次に超大国フランスを警戒するオランダ、イギリスらヨーロッパ各国の思惑があった。
こうしてハプスブルクは第二次ウィーン包囲を乗り切った。それだけではない。ハプスブルクの名将、プリンツ・オイゲンは1697年7月、ゼンタの戦いで自軍に倍する10万のトルコ軍を大破した。その2年後、トルコは屈辱的なカルロヴィッツ条約により、ヨーロッパへの領土的野心を放棄することになった。
・・・映画は、神聖ローマの話というより、オスマンのカラ・ムスタファの映画という感じ。(しかし修道士マルコって、結局この人何なんだかよく分からないっす)
プリンツ・オイゲンはチョイ役。この時がデビュー戦だから仕方ないですけど。
ポーランドはこの頃は強かったみたいだな。18世紀には国が無くなっちゃいますが。
最近の映像作品は肉弾戦の場面がリアルなので(「レッド・クリフ」とか「坂の上の雲」とか)、見るからに「痛い」し、何で人間はこんなことずっとやってきたのかと思っちゃう。
しかしイスラムのヨーロッパ攻撃を描いたこの映画の原題が「1683年9月11日」というのは、どういう意図があるのかね。実際には、決戦の日は9月12日だったみたいだし。
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