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2014年4月24日 (木)

竹田城の背後に秀吉あり

「天空の城」として人気を集める竹田城。山上の巨大な石垣が築かれた理由とは――日経新聞電子版4/20付の記事からメモする。

朝来市埋蔵文化財センターの田端基館長によると、竹田城の石垣が現在の姿に整備されたのは戦国時代末期の1590年代中ごろ。当時は石垣の上にやぐらや天守といった建築物もあったらしい。「これほどの石垣を持つ山城は全国的にもまれです」

どのようにして造られたのか。「坂の勾配がきついので麓から石を運ぶのは難しい。山の至る所にある石取り場から滑車などを使って人力で引っ張り上げたと想像されます」(田端館長)

地元の観光案内所が配布する資料には、「1585年、赤松広英が竹田城主になる」との記載がある。放映中のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場する若き戦国武将だ。領地の大きさを示す石高は約2万2千石と当時の徳川家康の100分の1以下。日本屈指の山城の主にしてはいささか物足りない。

朝来市教育委員会の中島雄二さんは、「小さな大名である赤松広秀だけで築城できる規模ではない」と断言する。「時の権力者である豊臣秀吉の意向が働く国家プロジェクトだった可能性が高い」

中島さんは、竹田城から直線距離で約15キロメートルの場所にある生野銀山(兵庫県朝来市)の存在を指摘する。当時の生野銀山は石見銀山(島根県大田市)、多田銀山(兵庫県猪名川町)などと並ぶ一大鉱山。1567年には日本最大の鉱脈が発見され、古文書に「銀の出ること土砂のごとし」と記されるほど栄えていた。

豪華絢爛な建造物を愛する派手好みな秀吉にとって、生野銀山はいわば“お財布”。そんな重要拠点を守るべく「にらみを利かす役割」(中島さん)を担ったのが、竹田城だったわけだ。

秀吉の死後まもない1600年、石田三成率いる豊臣方は関ヶ原の戦いで敗北。豊臣色を排除したい徳川幕府の誕生で、竹田城は10年にも満たない短い栄華を終え、歴史のうねりに消えていった。

・・・竹田城が天下支配の要のひとつとして威容を誇っていた時期はごく短かったようだが、残された姿は今でも人々に驚異に近い賛嘆の念を呼び起こす。当時の土木建築技術水準の高さを、山上の巨大石垣群はこれからも長きにわたって伝えていくはずだ。

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