科学哲学的「人生の(無)意味」
僕は人生の意味についてウジウジ悩むタイプの人間である。50歳を過ぎた今も基本的には変わらないので、自分でも始末に負えない感じがする。以下に、科学哲学の立場で書かれた『哲学入門』(戸田山和久・著、ちくま新書)からメモする。
科学が発展して科学的世界観が浸透していくと、人生の意味が失われるのではないかと恐れる人々がいる。
何が何でも人生に意味を見出そうとすることがどんな場合でも望ましいわけではない。
まず、人生総体の究極目的を求めてしまうのは、われわれが獲得した目的手段推論のための能力のある種の暴走だということだ。
人生は、短めの目的手段連鎖の集積だ。人生全体が目的手段の連鎖で成り立っているのではない。
われわれは人によって程度の差はあろうけど、おおむね自分の人生を生きるに値するものとしてまじめに追求している。
しかし一方で、われわれは自分と自分が必死に生きている人生を、「一歩ひいて」眺めることもできる。
われわれが科学的なものの見方を見につければつけるほど、われわれは「一歩ひいて」眺めることが上手になる。
人生を生きている当の本人なのに、その人生に対して外的・客観的な観点をとりえてしまう。このギャップが人生の無意味さを生み出している。
(人生の無意味さは、)われわれが手に入れた、科学を可能にした最も興味深い表象能力、つまり思考において自己自身を超越する能力のオマケとしてついてきたものではないのか。
こうした能力はおそらく進化の産物だ。
というわけで、人生の意味も無意味も、われわれが生存のために獲得した能力の副産物だということになる。
・・・人生の意味を考えるとき、人は人生の外側に立っている。もちろん、対象を外側から見ることは、考えるという活動の出発点である。しかし人生の外側に立つことは現実には不可能なのだから、それは錯覚でしかない。その錯覚をもたらしているのは、言語なのだろうと思う。
人生の外側からの意味付けとしては、あの世の物語つまり宗教も、かつてはそれなりに「合理性」を持っていたのだろう。しかし科学的世界観の浸透した現代では、その有効性はほぼ失われている。
おそらく人生はマクロでは無意味だが、ミクロでは意味に満ちている。目的手段の連関はそのひとつだ。しかしその意味の濃淡は様々なレベルがある。我々にできるのは、限られた人生の時間の中で、意味の濃い時間の比率が高まるように努めることなのだろうと思う。
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