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2014年3月30日 (日)

科学哲学的「人生の(無)意味」

僕は人生の意味についてウジウジ悩むタイプの人間である。50歳を過ぎた今も基本的には変わらないので、自分でも始末に負えない感じがする。以下に、科学哲学の立場で書かれた『哲学入門』(戸田山和久・著、ちくま新書)からメモする。

科学が発展して科学的世界観が浸透していくと、人生の意味が失われるのではないかと恐れる人々がいる。

何が何でも人生に意味を見出そうとすることがどんな場合でも望ましいわけではない。

まず、人生総体の究極目的を求めてしまうのは、われわれが獲得した目的手段推論のための能力のある種の暴走だということだ。
人生は、短めの目的手段連鎖の集積だ。人生全体が目的手段の連鎖で成り立っているのではない。

われわれは人によって程度の差はあろうけど、おおむね自分の人生を生きるに値するものとしてまじめに追求している。
しかし一方で、われわれは自分と自分が必死に生きている人生を、「一歩ひいて」眺
めることもできる。
われわれが科学的なものの見方を見につければつけるほど、われわれは「一歩ひいて」眺めることが上手になる。
人生を生きている当の本人なのに、その人生に対して外的・客観的な観点をとりえてしまう。このギャップが人生の無意味さを生み出している。
(人生の無意味さは、)われわれが手に入れた、科学を可能にした最も興味深い表象能力、つまり思考において自己自身を超越する能力のオマケとしてついてきたものではないのか。
こうした能力はおそらく進化の産物だ。
というわけで、人生の意味も無意味も、われわれが生存のために獲得した能力の副産物だということになる。

・・・人生の意味を考えるとき、人は人生の外側に立っている。もちろん、対象を外側から見ることは、考えるという活動の出発点である。しかし人生の外側に立つことは現実には不可能なのだから、それは錯覚でしかない。その錯覚をもたらしているのは、言語なのだろうと思う。

人生の外側からの意味付けとしては、あの世の物語つまり宗教も、かつてはそれなりに「合理性」を持っていたのだろう。しかし科学的世界観の浸透した現代では、その有効性はほぼ失われている。

おそらく人生はマクロでは無意味だが、ミクロでは意味に満ちている。目的手段の連関はそのひとつだ。しかしその意味の濃淡は様々なレベルがある。我々にできるのは、限られた人生の時間の中で、意味の濃い時間の比率が高まるように努めることなのだろうと思う。

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2014年3月24日 (月)

「往生」と「成仏」

学校では教えてくれない日本史の授業 天皇論』(井沢元彦・著、PHP文庫)から、大乗仏教の話をメモする。

「解脱」というのは、直訳すると「解き放たれてそこから脱出する」ということです。何に囚われているのかというと「輪廻」です。解脱するためには、修行をして自ら悟るしかありません。地位も名誉も財産も、すべてを捨てて出家して、修行に励まなければいけないというのが仏教の本来の教えなのです。

この(自力修行の困難という)問題を克服するために考え出されたのが、仏様のお力を借りるという方法でした。仏というのは悟りを開いた人という意味なので、お釈迦様以外にもさまざまな仏様がいるというのがこの考え方の前提にあります。そうした仏様の中のひとり「阿弥陀仏(=阿弥陀如来)」という仏様のお力をお借りするのです。なぜ阿弥陀様なのかというと、唯一この仏様だけが、「自分を念仏する人々を助けましょう」と言っているからなのです。

「極楽」というのは、正式には「極楽浄土」と言い、阿弥陀如来の住まう世界の名前です。「往生」というのは、文字通り「往って生まれる」ということです。つまり、亡くなった後、輪廻の輪の中にある世界に生まれ変わるのではなく、私の住む極楽浄土に生まれ変わらせてあげようというのです。こうして自力ではなく、阿弥陀仏の力、つまり「他力」によって解脱することを目指す仏教が生まれました。(大乗仏教)

往生というのは、念仏の結果、極楽浄土に生まれ変わるというのが本来の意味です。成仏というのは、本来は、念仏をして極楽に生まれ変わり、極楽で阿弥陀様の指導を受けて一人前の仏になるという意味です。日本人は、「往生」とは「満足できる死に方」、別の言い方をすれば「悔いのない死に方」であり、「成仏」とは、「死後に、怨みなど心残りが晴らされたこと」という意味で使っているのです。

これらは明らかに仏教とは異なる思想に基づいています。それこそが、日本人の心に深く根ざした「神道」(怨霊信仰)なのです。

・・・「往生」や「成仏」の意味が、いつのまにか変わってしまうことに見られるように、昔から日本は宗教含む外来思想を熱心に取り入れるのだが、自分の根っこにあるものは変えないというか、外来思想も日本風に変えてしまう場合が多いというのは、よく言われる話。やっぱりそれが日本の特質のひとつなんだろうな。

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2014年3月23日 (日)

信長と家康の「自己神格化」

学校では教えてくれない日本史の授業 天皇論』(井沢元彦・著、PHP文庫)から、織田信長及び徳川家康が天皇家に対抗するために「自己神格化」を図ったことについてメモする。

信長についてはさまざまな説がありますが、私はやはり天皇家を超える存在になろうとしていたのだと思います。

これは最近の安土城発掘でわかったことなのですが、どうも安土城の本丸のすぐ横で、一段下がったところに、天皇をお迎えするための御殿が建てられていたらしいのです。
信長が本丸から天皇を文字通り見下ろす構図になっているのです。
信長は天皇を超える権威を得るために、安土城を使って自ら神になることを目指していました。
私には、安土城が信長教の神殿だったのではないか、と思えてなりません。

日本は、昔から人間を神様に祀る習慣のある国です。しかしそれはたとえば菅原道真しかり、崇徳上皇しかり、平将門しかり、怨霊のたたりを恐れた他の人々が御霊として祀るというものでした。
周囲の人々に神と祭り上げられるのと、自ら神になるというのでは大きく違います。
実際には、自ら宣言して神になるということを達成したのは、家康ですが、信長のチャレンジと準備があったからこそ、秀吉の豊国大明神というステップを経て、家康が成し遂げることに成功したと言えるのです。

「東照大権現」という彼の神名には、明らかに天皇家の祖神である「天照大神」への対抗心が表れています。つまり、どちらも神の子孫であるということで、天皇と将軍の権威を対等であるとしたわけです。

自らを神格化するという野望を成し遂げた家康も、明治維新で大ドンデン返しを受けるわけですから、結局は天皇家を超えることはできなかったと言えます。

・・・信長や家康という神レベルの英傑でも、歴史を背負う天皇家を凌駕することはできなかった。それが良かったのか悪かったのか、正直自分にはよく分からない。

ところで、著者の「安土城=信長教の神殿」説の前提にあるのは、例の内藤晶の復元(吹き抜け構造の天守中央に宝塔が置かれている)なのだが、いくら幻の城とはいえ、これはちょっとやりすぎ感のある想像図。最近のNHK番組で見た安土城は、土台の不等辺七角形の中央を、部屋部分の四角形が占めて、その周囲は不定型な渡り廊下という設計で、こちらの方が現実的というか実用的な感じがした。まあ神殿とまではいかなくても、安土城は天下の中心のシンボルとは言えそうだな。

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2014年3月19日 (水)

原発停止と貿易赤字

本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(原発再稼動と経常収支)からメモ。

原発再稼動を主張する根拠として挙げられるのが、火力発電用の化石燃料の輸入増加である。資源エネルギー庁の計算では、原発停止による火力発電の追加コストは年間約3.6兆円とされる。我が国では、原発停止で発電コストが上がったために貿易収支が赤字になり、経常収支も悪化したと信じられている。

ところが、法政大学の小黒一正准教授の分析では、震災以降、石油や液化天然ガス(LNG)の総輸入数量はほとんど増えていない。数量があまり変化していないのだから、経常収支の悪化の主因は円安と鉱物燃料価格の高騰であり、原発停止は関係ないのではないかというのだ。

自動車用ガソリンなど非電力の分野で、石油などの輸入量が減る傾向は震災前から続いている。節電努力も相まって電力業界の燃料輸入量の増加分は相殺され、全体として石油などの輸入量は増えなかった。

分かっていることを整理すると、「原発が再稼動すれば、経常収支が3兆円前後改善するが、それは経常収支を底上げするだけで経常収支のトレンドを変えるほどの影響はない」ということになる。

再稼動による年間3兆円の利得は確かに大きいが、日本経済の死活問題というと言い過ぎだ。原発再稼動は経済の大勢に影響しないと考えれば、結局は「原発を続けたいかどうか」という経済政策とは異なる次元の問題に帰着する。

・・・とりあえず経常収支改善だけのために原発稼働は必要、と主張するのは筋違い、ということになるだろう。

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