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2014年2月11日 (火)

黒田官兵衛と朝鮮出兵

黒田官兵衛は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592~1598)にも従軍している。なので、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は朝鮮出兵をどう描くのか、歴史ファンの話題になっているという(「週刊ポスト」2/7号記事)。とりあえず自分も、朝鮮出兵時の黒田官兵衛は何をしていたのか、メモしてみる。(『黒田官兵衛』中公新書、『黒田官兵衛』平凡社新書、『黒田官兵衛は天下を狙ったのか』ベスト新書、『秀吉ではなく家康を「天下人」にした黒田官兵衛』双葉新書を参照しました)

朝鮮攻撃基地である肥前名護屋城は、天正19年(1591)10月から築城開始。黒田長政、小西行長、加藤清正に普請が命じられたが、長政の父である官兵衛が城の縄張り(設計)を決めたという。天正20年(後に文禄に改元、1592)3月に城の主要部分は完成。4月に日本軍15万が渡海し、プサンに上陸した。文禄の役の始まりである。官兵衛も5月に渡海するが、体調を崩して、いったん帰国。文禄2年(1593)3月、再び朝鮮に渡る。そして、事件が起きる。

軍議のため、石田三成、増田長盛、大谷吉継がハンソン(ソウル)から、官兵衛と浅野長政のいるトンネ(プサン近辺)まで移動。到着した時、二人は囲碁の対局中だったが、軍議を後回しにしてそのまま打ち続けたため、待たされた三人は怒って帰ってしまった。この後5月、官兵衛は帰国。三成らとの一件を弁明するためともいわれるが、許可なく戻ったことから、秀吉の激しい怒りを買ってしまう。官兵衛は出家して蟄居謹慎。8月には長政あてに「遺言」も認める程、追い詰められた心境に至ったが、結局処罰されることなく許された。

官兵衛が謹慎した頃から、戦いは和睦を探る動きとなり、一時休戦状態に。しかし講和は最終的に成立せず、慶長2年(1597)戦闘再開(慶長の役)。同年末、加藤清正の守るウルサン城の攻防戦。年が明けて慶長3年(1598)正月早々、黒田長政が救援のため、ヤンサン城から出撃。城の留守を預かる官兵衛は1500の兵で、攻めてきた明軍8000を撃退した。同年8月、秀吉の死により、朝鮮攻撃作戦も終結を迎える。

・・・こう見てくると、特に「囲碁事件」から官兵衛が出家に至る過程は、大河ドラマ的には欠かせないエピソードと思われるが、果たしてNHKは朝鮮出兵をどう扱うのだろうか。週刊ポスト記事では、ほぼ無視、ナレーションだけ、イメージ映像で処理、等々の予想が並んでるけど、やっぱり歴史ドラマなんだから、重大な歴史的事実はスルーして欲しくないよな。

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