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2014年2月12日 (水)

「信長革命」の破壊的徹底性

織田信長の国家ヴィジョンとは、どのようなものだったのか。以下に藤田達生・三重大学教授の解説をメモする。(雑誌「歴史発見」vol.2の総力特集「あなたの知らない織田信長」より)

室町幕府体制との対決の末に信長が到達したのは、伝統的な主従制のありかたを否定し、大名クラスの家臣個人の実力を査定し、能力に応じて領地・領民・城郭を預けるという預治思想(よちしそう)だった。

天下統一戦とは、預治思想にもとづき敵対大名の領地・領民・城郭を収公しながら、天下人を頂点とする「官僚制的封建国家」へと統合する戦争であり、極端に言えば、信長以外の武将は誰も考えなかった「非常識」な戦争だった。

信長は、主従制の中核に位置した君臣関係を超越する「公」概念としての「天下」を定立し、天下人として自らそれと限りなく一体化した。「予が国王であり内裏(だいり=天皇のこと)である」(信長が宣教師ヴァリニャーノに告げた言葉)

この思想的背景とは、いったいなんだったのか。信長は、古代中国の秦・漢帝国による国家統一に関する知識を得ていたと推測される。具体的な施策については、中国皇帝が地方に官僚を派遣して中央集権的に直接統治する郡県制の影響を受けたことによるのではないか。

信長とその後継者秀吉による天下統一戦は、全国の領主から本主権(先祖伝来の本領に対する伝統的支配権)を奪って収公し、あらためて有能な人物を国主大名以下の領主として任命して、実力主義の貫徹する合理的な国家を作り出すことを目指す「革命」だった。

ただし、信長は自らが神格化して天皇に代わる権威として定立しようとしたが、秀吉は関白に任官し天皇権威を利用して武家官僚制を導入したことが、両者の大きく異なるところだった。

・・・絶対君主、中央集権、官僚制等々、信長の国家観は時代の先を行くものと見えるが、実はそのアイデアは古代帝国をモデルとしていた。似たような先進的中世君主として思い出されるのは、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世(1194~1250)だ。最近塩野七生の書いた評伝も出ている人物で、ローマ帝国を範として、自らの本拠地であるシチリア王国の中央集権化、法治国家の確立を目指したのだが、ローマ教皇や都市同盟との戦いに身心を消耗する中、道半ばにして斃れたのだった。

とにかく、誰も思いつかなかったことを考えて実行に移した信長は、日本史における驚異的存在だ。信長の始めた「革命」は秀吉に継承されて、いちおうの完成は見たのだが、その徹底性は明らかに後退していた。そして家康は、変革よりも秩序固めの道を歩んでいくのだが、何にせよ三英傑の時代は日本史の巨大なターニングポントだなと、つくづく思う。

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