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2014年1月27日 (月)

宗教改革と神学の変質

宗教改革の時代には、当然のように神学の意義も大きく変化した。『神学の起源』(深井智朗・著、新教出版社)から、以下に要約の形でメモする。

宗教改革の時代の神学者たちは、「神学」という学を、自分たちの宗派の正しさを相手に対して証明し、弁証するための手段として用いるようになった。神学は、教会外の異端や教会外の思想との戦いではなく、教会内部の宗派の立場を説明するものになるのである。

1555年の政治的決定(アウクスブルク宗教平和)は、領邦の支配者の宗教が、その領邦の宗教となるということであった。

この政治的決定は「神学」に新しい意味と役割を与えることになった。ひとつは、神学の相対化が起きたということである。キリスト教的ヨーロッパ全体の問題、あるいは全人類の普遍的真理を考えてきた神学は、この時代からローカル化し、各領邦の政治や教会を支える学となる。そして神学はその領邦を、あるいは時代が近代に近づけば、個々の国家を支えるような政治的性格を持つようになる。

ドイツでは、ルターによる聖書のドイツ語翻訳がなされ、礼拝や讃美歌のドイツ語化が進んだ。ルターの宗教は爆発的に拡大する。そして彼の宗教はドイツ語やドイツ文化と結びついて理解されるようになる。さらにそのことによって宗教とナショナリスム、あるいは神学とナショナリズムとが結びつくようになる。カトリックがラテン語によってヨーロッパ中と結びついていたのとは逆の現象である。中世の神学がインターナショナルなものと結びついていたとすれば、宗教改革以後の神学はナショナルなものと結びつくようになった。

・・・中世ヨーロッパにおいて国家は宗教を選べなかったが、キリスト教分裂以後は国家が宗教を選ぶことが可能になった。これに伴い必然的に、神学も政治的でナショナルな性格を持つものへと変化した。やはり宗教改革の時代は、非常に大きな転換期だったというほかない。

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2014年1月26日 (日)

なぜ西欧はキリスト教化したか

西欧がキリスト教化した時代背景や理由について、『神学の起源』(深井智朗・著、新教出版社)から、要約する形でメモする。

どうして西ヨーロッパはキリスト教化したのであろうか。一番大きな理由は、経済史家アンリ・ピレンヌが考えたように、地中海地域の覇権をイスラムが奪ったため、キリスト教は中心はローマに残しつつも、その舞台を北へと移したのである。

それではキリスト教はどのようにして西ヨーロッパをキリスト教化したのだろうか。重要な点が二つあるのではないか。ひとつは時間の支配である。キリスト教は、自然の創造者であるこの世を超越した神への信仰を教育した。自然は信仰や畏れの対象から、被造物となった。教会や修道院は、人々の労働や祈りの時間あるいは暦を定め、人々に時間と共に生きることを教えた。

もうひとつは死の支配、あるいは天国の支配と言ってもよい。教会は、天国とこの世を繋ぐ階段は教会だけが管理できることに定めた。この世に生活する人間にとって大切なことは、この教会の教えを守り、死んで天国に行くことであった。死と死後の世界は現代人と違って大変リアルなものであった。
結局教会は死の話をしながら、実際には現世をも支配する絶対的な権力になってゆく。
キリスト教はイエスの神の国の接近という教えからもっとも遠ざかり、この世の支配システムとなった。

・・・それにしても、病、天災、戦争が日常である中で生きた昔の人々は、死後の世界を信じることなしには生きていけなかっただろうと思うと切ない。(日本でも平安・鎌倉期の仏教興隆は似たような事情かと)

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2014年1月25日 (土)

「終末の遅延」と神学の誕生

なぜ神学という学問が生まれたのか。『神学の起源』(深井智朗・著、新教出版社)から、要約の形でメモしてみる。

「イエスは神の国の到来を説教したのに、やってきたのは教会だった」という言葉がある。この指摘は、キリスト教宗教の誕生が、実はイエスの教えとは全く違った方向に展開したことを示している。

「終末の遅延」という意識と、神学の誕生は深く結びついているようだ。イエスはラディカルな終末論を唱えて、十字架につけられた。イエスの弟子たちの最初の、「神学的な努力」のひとつは、「この世の終わりはまだ来ていない」という現実について説明することだった。(イエスの教えを解釈した聖書も、神学的行為だったと言える)

「神の国の到来」あるいは「この世の終わり」という教えは、当時の「この世」であるローマ帝国を否定する危険な革命思想だった。しかし、多神教のローマ帝国の支配者は、自らの権力の正統性(神に選ばれた者)を保障するため、一神教のキリスト教を帝国の宗教として採用した。これにより、「この世の宗教」となったキリスト教側も課題を抱えることになった。イエスの教えを基本としつつ、政治や経済、教育や文化などについて考え、説明する必要が出てきたのである。そこで、神学が生まれた。

今のキリスト教や神学は、イエスの教えを核に持ってはいるが、それと単純に直結するものではない。その間にあった二千年の歴史を消し去ることはできない。神学はイエスの教えを、それぞれの時代や地域の言語や文化という枠組の中で表現してきた試みだと言えるだろう。

・・・キリスト教は歴史的に形成されてきた。キリスト教そのものがイエスの教えの解釈の上に成立している。そして、そのキリスト教を解釈してきたのが神学の歴史ということになる。

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2014年1月20日 (月)

宗教改革と近代ドイツの統一

ルターの宗教改革を近代の始まりとする見方は、近代ドイツ国家統一のための「イデオロギー」だった――『神学の起源』(深井智朗・著、新教出版社)からメモする。

実は、16世紀の宗教改革こそが中世の終わりで近代の始まりであるという主張、あるいはカトリック的な中世に対するルターの宗教改革によって生まれたプロテスタント的な「キリスト者の自由」という主張が近代の始まりだという見方は、きわめて政治的な命題で、19世紀になってようやく国家統一を果たしたドイツの「政治神学」として採用された比較的新しい見方であると言ってよい。つまりこの命題自体がドイツのナショナリズムの産物なのである。 

1871年にようやく全国統一を果たして遅れて登場してきた中欧の大国ドイツは、日本と同じように富国強兵を掲げ、ヨーロッパの中心、もっともヨーロッパ的な国家としてのドイツというイメージを、フランスとイギリスに対して、そして実は国内向けにも示さねばならなかった。このような国家戦略に積極的に協力したのが実はこの時代のプロテスタント神学部の教授たちだった。別の見方をすればこのこの時代のドイツにおいて神学は統一国家をイデオロギー的に補強する政治的役割を社会の中で果たすことを求められていたのである。 

大ドイツ主義というのはオーストリアなどドイツ語を話す国家を包括するという構想であったが、実際にはプロイセンを中心にいわゆる小ドイツ主義で国家統一を行うことになったのである。その時出来上がった、ヴィルヘルム一世を皇帝にいただくこの国家は、カトリックであるオーストリアやフランスに勝利して、ヨーロッパの中心に、神の恩寵のもとに建国されたプロテスタント国家としてのドイツであるというスローガンを掲げた。プロテスタント神学はこのような国づくりのためにそのスローガンを提供したのである。それが「近代的自由をはじめて手にしたルターとその宗教改革」というものだった。

・・・国家はすべからく自らの建国を正当化する物語を必要とする。近代ドイツ国家にとって、その物語は神学に由来するものだった。古代国家の起源が宗教や神話で語られるのは了解しやすいが、近代国家といえども、その国家統一の物語の源泉は宗教的なものだということになる。そして明治の日本も、国家神道を柱に近代化した事情は似たようなものだと思われる。

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2014年1月14日 (火)

世俗化社会と神学の意義

先日、池田信夫先生がブログで、「カール・シュミットがいうように、主権は神のメタファーであり、政治は神学である」と指摘して、シュミットの著作『政治神学』を取り上げていた。シュミットの「政治神学」が意味するもの、さらには現代における神学の意義について、『神学の起源』(深井智朗・著、新教出版社)からメモしてみる。

シュミットにとっての「政治神学」というのは、政治的諸概念が持つ神学的な起源のことである。たとえば「国家主権」というような場合にこの「主権」という概念が持っている神学的起源である。したがって、シュミットにとって実は「政治神学」とはひとつの世俗化論なのである。世俗化と言うと、社会の脱宗教化のことと考えてしまいがちであるが、逆に世俗化とは、現代のさまざまな社会の仕組みや思想が持っている、切っても切れない宗教的な起源を説明してもいるのだ。シュミットの「政治神学」というのはそういうものである。

つまり世俗化とは、現代社会のように「聖なるもの」を失い、脱宗教化して、社会システムのあらゆる場所から神を追い出すことだと説明されるが、逆に、その社会には、たとえ人々が宗教を忘れ、聖なるものを失っても、なお「世俗化した」形で元来のシステムが残っているという、過去と現在の連続性を説明することにもなるのである。そうすると神学は、西ヨーロッパに起源をもつあらゆる文化や学問、制度やシステムを考える時に、常に対話の相手として呼び出される、非常に重要な学問ということにならないだろうか。

神学を知っていることによって、ヨーロッパやアメリカの世界を理解できる可能性があるとしたら、それはむしろ神学を知ることで、世界の「深層構造」を知ることができるということではないかと思う。

・・・ポストモダンの後にグローバル近代がやってきたというか、現代社会のベースにあるのは結局、国家、資本主義、科学技術という近代的諸原理であり、それらは言うまでもなく、キリスト教と神学により形成された西欧社会から生み出されたものであるから、グローバル社会の中で生きる日本人にとっても、キリスト教や神学は決して無縁のものとは言えないのだと思う。

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2014年1月 4日 (土)

東京オリンピックの頃

2020年東京オリンピック開催が昨年決まり、年が明けた今年は1964年東京オリンピックの50周年。当時、安岡章太郎の書いた「途上大国のハシカ、オリンピック」(講談社発行の『歴史の温もり』に所収)からメモする。

「オリンピックを東京へ――」
これはなにも、運動会や駆けっこが三度のメシより好きだという人たちの願いであっただけではない。また、乗り物や宿屋の番頭や客引きたちの待望したものでもない。日本列島という島国に、何千年来閉じこもって暮らしてきた私たち先祖代々の、なんとかして世界中の国のいいところへ追いつきたいという悲願が、オリンピックになったり、戦争になったり、いろいろの型であらわれているだけのことである。
(中略)
そういうことからいえば、私たちは、こんどの東京オリンピックで、日本のなかにある〝後進性〟を、いろいろな点で、イヤでも認識しなくてはならなくなるだろう。

われわれが何千年の固有の文化を受け継いでいることは間違いない。けれども西洋文明については、われわれはよくいっても、せいぜい新興成り金であるにすぎない。

頭隠して尻隠さず、ということは、どんな文明国にもあるだろう。しかし日本の場合は、それが政治や経済的な理由によるものだけではなくて、異質の文明を中途から受け継がされたことから、文化的な面でいろいろとシリが割れているのだから、これはたとい他の面でどんなに努力しても、ちょっとやそっとの年月では調整しきれないチグハグさなのだ。

・・・作家にとってオリンピックは、遅れた島国である日本が一度はかからなければならない「ハシカ」であった。そして半世紀。「ちょっとやそっとの年月」ではない、充分に長い時間が経ったと思える。もはや我々は「後進性」は払拭したかも知れないが、余りに西洋文明化されて、むしろ固有の文化を忘却しつつあるようにも見える。

そんな中で決定された2020年東京オリンピック。その意義とは何だろう。経済成熟国の「成長戦略」の一環なのか。「夢よもう一度」という郷愁にも似た情熱なのか。それとも単に国家的イベントで盛り上がりたいだけなのか。体育不得意少年だった自分には、正直よく分からないのだった。

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2014年1月 3日 (金)

戦中派の「靖国」観

一年前、92歳で亡くなった安岡章太郎は、靖国神社に対して、懐かしさと腹立たしさと二つの想いがあると書いている(「九段 靖国神社」1984年発表)。懐かしさは、作家の通っていた市立一中(現九段高校)が靖国神社に隣接していたことに由来する。そして腹立たしさは――歴史エッセイ集『歴史の温もり』(講談社)からメモ。

では、靖国神社に腹が立つのは何のためか? これは自分が軍隊に入って、しょっ中、靖国神社という言葉を聞かされるようになったからだ。兵隊が「靖国神社」といえば、それは死ぬことなのだ。(中略)僕らは訓練中、何か失敗すると、たちまちドナられる。
「お前ら、野戦でそんなことをやってると、すぐさま靖国神社行きだぞ」

しかし、これはまだいい。僕が靖国神社という言葉をきいて、しんからイヤになったのは、慰問演芸団がよくやる『九段の母』とか、『靖国の妻』とかいう舞踊つきの歌をきかされてからだ。

夫が名誉の戦死をとげ、靖国の神となったのを悲しむことは〝非国民〟だと言われかねない風潮が、たしかにあの時代にはあったのだ。そして僕ら兵隊は、まかり間違っても靖国の神になることを拒否することは、絶対に許されなかった。

何年か前に、東条英機元大将がコッソリ靖国神社に合祀されているのが、左派系議員によってバクロされるというへんな事件があった。東条氏が合祀されるにふさわしい人物かどうか、ここではそれは問わないとしても、国民に知られないようなかたちで合祀したということ自体、不愉快であり、神事にふさわしくないことだと思う。

・・・エッセイの末尾には、久しぶりに母校を訪ねた作家が、靖国神社にも立ち寄り、戦友たちのことを想い出しながら、お参りしたことが記されている。

やはり靖国神社について何かを語る資格があるのは「当事者」、つまり戦争経験者や戦死者の関係者だけなんだろうと思う。我々戦争を知らない者が、英霊がどうとか言うのは僭越至極というか、観念的な物言いにしかならないような気がする。

作家も言及しているA級戦犯の合祀は1978年(事実が明らかになったのは翌79年)。以降昭和天皇は参拝しなかった。その極めて重い判断の意味を、戦争を知らない総理大臣が無視してよいとは思えない。

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