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2013年11月23日 (土)

「近代を問う」時代があった

日本の近代、その是非を問い質す時代がかつてあった――福田恒存アンソロジー『保守とは何か』所収「近代の宿命」(昭和22年発表)からメモする。

統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦与する。とすれば、ぼくたち日本人がヨーロッパに羨望するものこそ、ほかならぬ近代日本における歴史性の欠如以外のなにものであろうか。今日ぼくたちは近代の確立をなしえなかったことを反省している。が、そのまえにぼくたちはぼくたちの中世をもちえなかったことについて悔いるべきではなかろうか――ぼくたちがぼくたちの神をもちえなかったことを。 

明治におけるぼくたちの先達が反逆すべき神をもっていなかったこと、そのことのうちに日本の近代を未成熟に終らしめた根本の原因が見いだせよう。
ひるがえってぼくたちは近代日本にいかなる統一原理を見出せようか。また近代を過去のアンチテーゼとして成立せしめる歴史的一貫性をどこにみとめえようか。答えは、なにも、どこにも、である。
 

近代の超克とはなにごとであるか――ぼくたちは超克すべき真の近代をもたず、しかも近代の反逆超克すべき中世をもたなかった。近代ヨーロッパは神を見失った――が、それはただ神の解体と変形と抽象化とを意味するにすぎぬ。まさにそのための手続であり、過程にすぎなかったヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構とをそのまま移入し、そのうちに生活せざるをえないぼくたち日本人にして、しかも神と絶縁されているとするならば、いいかえれば、個人の純粋性ではなくしてその特殊性しかもちえぬとするならば、いったいぼくたちはこのヨーロッパの近代といかに対決してしかるべきか。答えは――その確立と同時に超克とを。

確立と超克と。ほくたちの眼のまえにこの二つの矛盾することばは、つぎのように翻訳されて現れる――近代の政治的確立とその精神的超克と、しかして政治の領域と文学の領域との峻別。が、はたしてそれでいいのか。

・・・近代ヨーロッパに対する透徹した考察を示す福田恒存。しかしながらその思考に従えば、ヨーロッパ的な神や中世の歴史を欠いている以上、日本における近代の確立もその超克も、結局は虚妄に終わるほかない。そのことを一番良く分かっていたのも、福田恒存その人ではないだろうか。

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