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2013年8月31日 (土)

四苦八苦

まず『仏教の真実』(田上太秀・著、講談社現代新書)から以下にメモする。

「苦」とは「思うようにならないこと」という意味である。あるいは欲するようにならないこと、願うようにならないことでもある。要するに己の思うように、欲するように、願うようにならないことを仏教では「苦」と言う。 

四苦八苦とは、生・老・病・死の四苦と怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦をいう。八苦のなかでも生老病死は思うようにならないと言うより、避けられないものと言った方が正しい。 

生まれたものは生活しなければならない。生活のなかでさまざまな思うようにならないことが発生する。それが八苦のなかのつぎの四苦である。
その四苦とは「恨み憎み合うものが会わなければならない苦しみ」(怨憎会苦)、「愛するものと生き別れ、死に別れる苦しみ」(愛別離苦)、「求めても願いどおりに取得できない苦しみ」(求不得苦)、そして「身心の悩みを処理する苦しみ」(五蘊盛苦)である。

・・・生老病死の四苦は避けられない。と言えばそれまでだけど、「苦」すなわち「思うようにならない」という観点から捉え直せば、生老病死は自分の意志の力の及ばないところで起きる出来事。いわば生老病死は徹頭徹尾フィジカルな事柄である。だから自分の心ではどうにも動かしようがない、ということになる。

しかしフィジカルというと、もっと端的には自分の身体的条件は自分ではどうにもならない。自分の容姿は自分では選べない。はあ。

そんな具合に考えてみれば、現実は「思うようにならないこと」だらけだ。そういう意味では「人生は苦」である。人生は思うようにならないのが当たり前、なんだろう。それでも人間は物事を自分の思い通りに運ぼうとする・・・なぜか。結局「全能の幻想」(岸田秀)に捉われているから?

さらに思う。誕生から死まで、人生のほぼ最初からほぼ最後までの間じゅう、「思うようにならないこと」があるとすれば、自分が自分であること、ではないか。

子供は子供の頃
いつも不思議だった
なぜ僕は僕で君ではない?
(映画「ベルリン天使の詩」より)

自分はどこまで行っても自分である。自分とは別のものになりたいと思っても、それはかなわぬ願い。

結局生きるとは、自分が自分として今ここに生きている不可思議を味わいながら、自分が自分でしかないことをただ経験する・・・ということだろうか。

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2013年8月26日 (月)

ユーライア・ヒープのライヴCD

ユーライア・ヒープのCD「ライヴ・イン・カワサキ2010」を聴いた。内容はタイトル通り、今から3年前の2010年川崎クラブチッタ公演(アルバム「悪魔と魔法使い」全曲演奏を含む)の模様が収められている。何でも海外では既に製品販売されていたとのことだが、今回遅まきながら日本盤が発売されたのは、今年5月に亡くなったベーシストのトレヴァー・ボルダー追悼盤という意味も込められている、らしい。

正直、メンバー死去は知らなかったが、きっかけはどうあれ、ブリティッシュ・ハードロックの老舗バンド、ユーライア・ヒープの今を伝える作品、しかもライヴ・イン・ジャパンが日本盤として登場したのは、70年代ティーンエイジャーである自分には結構なことだと思える。

でも、「悪魔と魔法使い」は、全曲演奏企画の対象となるような作品なのかな。音楽的インパクトは「対自核」の方が強い気もするが。しかし正直、ヒープの「ベスト」といえば、ベスト盤だよな、という身も蓋もない感じもあるわけです。(苦笑)

それはさておき、バンドが40年という長期にわたり活動を続けて、今も相当のパワーを維持していることには、70年代ティーンエイジャーとしても力づけられる・・・んだけど、今のヒープのライヴを聴いても、やっぱりヒープの黄金期は70年代前半で、ボーカルがデイビッド・バイロン、ベースがゲイリー・セイン~ジョン・ウェットンの頃であることを再認識させられるのも現実だな。だから、今のユーライア・ヒープをユーライア・ヒープと呼べるのかというと、何だか微妙な感じもある。(苦笑)

そんな微妙な感じを持ちつつも、ヒープの音楽を聴くと、オルガンの入ってるハード・ロックって良いよな、と思う。で、思い出されるのはディープ・パープル。こちらもいまだに活動を続けているわけですが、今のディープ・パープルをディープ・パープルと呼べるのかというと、これも何だか微妙なんだな。(苦笑)

長く続けることに意義を認めないわけじゃないけど、両バンドとも既に看板に内実が伴っていないと思わざるを得ない。今のユーライア・ヒープはミック・ボックス・バンド、そしてディープ・パープルはイアン・ギラン・バンドって感じだな。

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2013年8月25日 (日)

ファシズムの歴史的背景

今から80年前の1933年、ドイツでヒトラー政権成立。この出来事は、戦間期後半のヨーロッパにおける「右翼の興隆」という潮流に根ざしていた――『近代ドイツの歴史』(ミネルヴァ書房)から以下に引用する。

第一次世界大戦末から戦後初期にかけてのヨーロッパは、ロシア革命や中東欧での革命、新興諸国家での議会制民主主義の導入、各国の左翼政党の躍進と政権参与に見られるように「左翼の興隆」が顕著であった。 

しかし、20年代半ば以降は、北欧やイギリス・フランスを除いたヨーロッパ各地で、右翼が左翼を凌駕するようになった。戦争直後の理想主義的すぎる憲法、相次ぐ経済不振、党派争いの激しい議会、不安定で無力な内閣。これらに幻滅した人々は強力な政権を望んだ。自由主義政党はほぼ中道を保ったが、普通選挙実施によって大勢力となった左右の大衆政党に、太刀打ちできなかった。その状況で、左翼を攻撃する形で右翼の興隆が始まった。右翼のうち、エリート主義的な要素が強いものを権威主義、人民主義的要素が強いものをファシズムと見なすことができる。 

ファシズムはナショナリズムの極限形である。国際協調を軽視し、、マルクス主義を敵視し、ヴェルサイユ体制を否定し、自由主義と個人主義に対抗して、民族や国家という「全体」の優先を提唱した。 

経済的には、資本主義の枠内にとどまりつつも統制経済の要求を強め、自由主義や共産主義と異なる道を唱えた。 

政治スタイルとしては、理性や議論よりも行動や決断を重視する武断的な様相を持ち、指導者が命令し、他の者は指導者に従う「指導者原理」を特徴とした。しかし君主制に戻ればよいというエリート主義的な復古主義ではなく、下からの大衆運動に基づいた、明らかに大衆政治時代の産物である。

・・・1920年代のドイツ・ワイマル共和国苦闘の構図は、30年代のスペイン内戦にも一層激烈な様相で引き継がれる。大雑把にいえば、「革命」政権に対する右翼の巻き返し。すなわち左翼を凌駕しようとする右翼。そしてまた、左翼の中にも急進派と穏健派の対立があるから、話は余計ややこしくなる。

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2013年8月24日 (土)

ワイマル共和国の苦闘

先頃「ナチス憲法」とか、またテキトーな政治家がテキトーなこと言ってる、という感じだったけど、でも俺ワイマル共和国についてよく知らないなあとも思い始めて、少し勉強。主な出来事を年表的に並べると以下のようなこと。

1918年11月 第一次世界大戦中のドイツで革命が起こり、帝政が終わる。
1919年 1月 ドイツ共産党(スパルタクス団)の蜂起
      2月 社会民主党を中心とする政権成立
      6月 ヴェルサイユ条約調印
      7月 ワイマル共和国憲法を採択
1920年 3月 右翼政治家・軍人によるカップ一揆
1923年 1月 フランス・ベルギー軍、ルール地方占領。賠償支払いを要求。
         天文学的なインフレーション起こる
     11月 ヒトラーのミュンヘン一揆失敗
1924年 8月 賠償支払条件を見直したドーズ案調印
         アメリカ資本の流入で経済好転。「相対的安定期」
1929年10月 アメリカのウォール街で株価大暴落、世界恐慌始まる。
1930年 3月 政党間の対立激化、大統領が首相を指名。「大統領内閣」始まる。
      9月 選挙でナチ党大躍進、12議席から107議席に。
1933年 1月 ヒトラー、首相に指名される。

ワイマル憲法は国民主権を謳い、国民の幅広い社会的権利を規定。当時最も民主的な憲法を生み出した共和国政権はしかし、その成立当初から左右両極からの激しい攻撃に晒され続ける。そしてインフレーションの発生により、共和国の危機は頂点に。しかし当時のシュトレーゼマン首相は新通貨発行によりインフレを終息させると、以後は外相として国際協調路線を邁進。ロカルノ条約締結(1925)、国際連盟加盟(1926)を実現するなど八面六臂の活躍を見せるも51歳で急死。その直後に起きたアメリカの株価大暴落により、ドイツ経済は再び混迷。失業者が一気に増大する中、ナチ党と共産党の支持が拡大する。議会は調整能力を失い、以後は大統領が首相を指名。その「大統領内閣」の影の実力者である「政治的将軍」シュライヒャーは、ナチ党を上手く操ろうと画策するが結局失敗。遂にヒトラーが首相に任命される。以後ヒトラーは憲法の停止、全権委任法の成立、政党の解散、大統領を兼任する総統就任と矢継ぎ早に手を打ち、独裁体制を確立するのだった。

「最も民主的な憲法の国から独裁者が生まれた」という言い方がされることもあるけど、戦争と革命そして恐慌の時代の中、大衆社会における理想主義的憲法は些か現実離れしていたのかも知れない。

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2013年8月20日 (火)

ベルギーの「分裂」

ベルギーでは、北部のオランダ語圏と、南部のフランス語圏の対立が激しさを増しているという。本日付日経新聞国際面記事(ベルギーが抱える「南北問題」)から以下にメモ。

オランダ語圏の分離独立を最終目標に掲げる右派政党、新フランドル同盟は前回2010年の連邦議会選で第1党に躍進。選挙後の連立政権に向けた協議でも自らの立場を崩さず、約1年半にわたって新政権が発足できない政治空白の主因になった。結果的には第1党の同党が参加しない形で、6党による連立政権が発足した。

新フランドル同盟の勢いはその後も増している。12年秋の統一地方選ではオランダ語圏で支持を伸ばし、同国第2の都市アントワープの市長も押さえた。次回14年5月の連邦議会選で勢力を一段と拡大することになれば、国家分裂の危機は一段と現実味を増す。

言語・地域対立の激化は、ベルギーの歴史と経済情勢が深く関連している。ベルギーは1830年の独立以降、フランス語圏の出身者が中心となり、国家を運営してきた。しかし人口の6割近くはオランダ語を主な言語としており、フランス語の人口を上回る。

さらに南部のフランス語圏の主要産業である鉄鋼業が近年、衰退気味である一方、北部のオランダ語圏は重化学工業などの発展でベルギー経済を支える。失業率もオランダ語圏の方が低い状況にある。このため、オランダ語圏では「なぜ北部が稼いだ資金を、南部のフランス語圏の社会保障などに充てなければならないのか」との不満が募る。

・・・ベルギーと同様、イタリアも「南北問題」に悩んでいるし、スペインではカタルーニャ地方が「独立」志向を強めるなど、ヨーロッパの国々はあちこちで「分裂」を抱えている。地域の経済格差が、近代国家の統一を揺さぶっている。

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2013年8月18日 (日)

「ローマ帝国」とドイツ

主演ドラマ「半沢直樹」が絶好調の堺雅人のエッセイ集『文・堺雅人② すこやかな日々』の中に、ドイツのことを書いている部分があるのでメモしてみる。

ヨーロッパ人は、千五百年まえにほろびた「ローマ帝国」を、いまもアタマのどこかにもっているのではないか。現実の国境とはべつに、栄光のローマ帝国がかきこまれた地図をもう一枚もっているようなイメージだ。そして、自分の住んでいる土地が、まぼろしのローマ帝国の領土かどうかで、「田舎か都会か」をきめているような気がするのである。 

ドイツは、その国土のほとんどがローマ帝国の版図にくみこまれた歴史をもたない。まぼろしのヨーロッパ地図でいえば、帝国領のはじにある、文明と野蛮がまじりあったグレーゾーン。 

中途半端なイナカの都市たちが、ゆるやかに連合し、しぶしぶ、ひとつの国をかたちづくっている――ドイツとは、むかしからそうした土地ではないだろうか。

・・・堺クンの意見に共感しつつ自分も思う。おそらく、古のローマ帝国は後世のヨーロッパ人にとって憧れの「ブランド」であり続けているのだ、と。

世界史の本を開いてローマ帝国最大版図の地図を眺めてみれば、そこにはイギリスやフランスそしてスペイン、もちろんイタリアやバルカン半島も含まれるわけで、それら「文明」の地に対して、ドイツは野蛮なゲルマン人のたむろするド田舎ということになるのかと。

しかし、そのド田舎を含む地域が、中世には「神聖ローマ帝国」を名乗るという、何とも妙な歴史の巡り合わせとなるわけで、これには時のローマ教会の思惑が大きく絡んでいるにしても、それ程の必然性があるようにも見えないものだから、歴史というのは時に偶然の悪戯のように見える動きから後々の流れが出来ていくこともあるのだな、と思う。

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