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2013年6月30日 (日)

ドイツ語は馬と語る言葉?

神聖ローマ皇帝カール5世は、「スペイン語は神と、フランス語は男と、イタリア語は女と、ドイツ語は馬と語る言葉」と言ったとか。これだけ聞くと、ドイツ語はサイテーの言葉、みたいな感じだが、そんな話じゃないんだよ、ということを、昨日29日朝日カルチャーセンター講座「神聖ローマ帝国とハプスブルク」(講師:皆川卓先生)の中で教わりました。大体、以下のようなことです。

「男にはフランス語で、女にはイタリア語で、貴族(ないし神)にはスペイン語で、馬にはドイツ語で話す」というのは、カール5世がそれぞれの言葉を話す人々の中の、どのような階層・身分に焦点を当てているかを示した言葉である。

「男にはフランス語で」。ネーデルラントのヘントで生まれたカールの母語はフランス語。親しい腹心たちとはフランス語で政治を論じた。また、フランス語系の都市は帝国に反抗的だったこともあり、都市住民つまり市民の男たちに対してはフランス語で語る必要があった。

「女にはイタリア語で」。イタリアの宮廷内で女性の力は非常に強かった。彼女たちは宮廷内世論を作り上げて、政治に影響力を及ぼした。イタリア語で語り、宮廷内の才媛たちから良い評判を得ることが、帝国のイタリア統治を円滑に行うことにつながる。

「貴族(神)にはスペイン語で」。スペインでは教会が圧倒的な力を持っている。スペイン語で語るということは、教会に係る聖職者や貴族に働きかけるという狙いがある。

「馬にはドイツ語で」。馬に話しかけるということは、馬の周りにいる人々、つまり兵士に語り聞かせるということ。皇帝の軍隊の中核はドイツの人々であるから、ドイツ語で語ることにより士気を上げることができる。

・・・つまり、カールの言葉は各国語に対する「評価」というよりも、フランス市民、イタリア貴婦人、スペイン貴族、ドイツ兵士に、それぞれの言葉で語りかけて協力を得るというカールの政治信条を表しているのだ、ということです。

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2013年6月24日 (月)

ルターという「革命家」

まずは16世紀宗教改革を可能にした当時のドイツの社会状況について、『世界は宗教で動いてる』(橋爪大三郎・著、光文社新書)からメモする。

ルターが現れた当時のドイツは領邦国家が群立する状況で、中小の封建領主がひしめき合っていました。そんな状況だったので、ルターのような教会批判が現れれば、カトリック教会の側に立ってルターをけしからんと思う統治者もいれば、ルターを支持して保護を与えようとする統治者もいた。このように政治権力が分裂していると、宗教改革のような運動が広がる余地があった。

ドイツの諸侯にしてみれば、カトリック教会の言うことを聞かなくてもいいというルターの説は、(教会に納める税金など)財政負担が削減できる、おあつらえの学説だったのです。だからカトリック教会にあえて反対しても、ルターを助ける諸侯が出てきた。

・・・当時の人文主義の運動や活版印刷の発達も、ルターの活動の支援要因だった。そしてルターの思想が広がった結果、世俗君主は教会の権威から自由になる。以下は『東大のディープな世界史』(祝田秀全・著、中経出版)からのメモ。

1506年にイタリア留学を果たしたエラスムスは、その成果を1516年『校訂版 新約聖書』として出版。ラテン語版の『新約聖書』にギリシア語の対訳が付けられたものです。
宗教改革の狼煙となったルターの『95か条の論題』(1517年)は、1522年から大量に印刷され、発行部数は30万部をかぞえました。
ルターは1521年、ドイツ語訳『聖書』の出版に着手。これは先のエラスムスの『校訂版 新約聖書』を底本にしています。

(ローマ教会という)「中世的権威の衰退」を決定づけたのは、アウクスブルクの宗教和議(1555年)の合意。神聖ローマ帝国では、カトリックか、ルター派か、といった宗教の決定権が世俗(領邦君主・自由市)側に属することになったのです
イメージとしては、今まではドイツ内の約300藩の殿様たちは、生まれた瞬間からカトリックで、教皇の絶大な権威に服してきた。ところが、宗教和議によってそれが逆転。カトリックか、ルター派かのどちらを採るかは、殿様が自分で決められる。これはまさしく、主権国家体制の要件をなすものとなりました。

・・・「95か条の論題」から100年後、1618年に始まった三十年戦争は、1648年のウェストファリア条約締結で終わった。つまり宗教改革の開始は国家主権体制の確立に帰結した、と見られるわけだから、ルターは時代を回し社会を大きく変えた「革命家」だと言ってよいと思う。

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2013年6月23日 (日)

グローバル・ヒストリーとは

最近、「グローバル・ヒストリー」という言葉がちらほら目に付く。「世界史」じゃなくて、グローバル・ヒストリーって何だ?・・・と思っていたところに、『世界史の中の資本主義』(東洋経済新報社)の第4章「世界システム」(山下範久)の中で解説されていたので、以下にメモ。

歴史社会学で近年よく語られるコンセプトの一つに「グローバル・ヒストリー」がある。学問上、決まった定義があるわけではなく、さまざまな人がいろいろな文脈で使っているが、歴史学者が「グローバル・ヒストリー」と発言する場合には、「従来の歴史家の想定の外側に、同時代的な結びつきを発見していくこと」を意図している。

従来の歴史学では、世界をヨーロッパとそれ以外の地域に分け、それぞれが独自に発展してきたように叙述する視点が一般的だった。その後、アメリカの歴史学者イマニュエル・ウォーラーステインが提唱した「世界システム論」のように、世界の各地域の横のつながりを重視する視点が出てきた。

しかしそれも基本的にはヨーロッパ中心の人類史であり、「ヨーロッパ中心という枠を外した上で、世界の各地域の横のつながりを見ていこう」というのが、現在の日本のグローバル・ヒストリーの基本スタンスである。

・・・グローバル・ヒストリーにおいては、19世紀以降にヨーロッパが経済発展で先行した事実を「大分岐」と呼び、これが現在は中国の急成長により「大収斂」の動きに転じていると見て、今後の展開の予測が論争の大きな焦点になっているという。

思うに、おそらく従来の「世界史」も、今後は「グローバル・ヒストリー」的視点を取り入れて、徐々に変貌していくんじゃないだろうか。

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2013年6月22日 (土)

社会を壊す「底辺への競争」

昨日21日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(「底辺への競争」の危うさ)から以下にメモ。

いわゆる「底辺への競争」は、外国企業の誘致や自国産業の育成のため、国が税制や労働条件、金融や会社法などの規制緩和を競うことにより、結果的に国民の生活水準の劣化を招く、グローバリゼーションの負の側面を指す。古くは1930年代、新しくはリーマン・ショック後の金融経済危機の下で強く意識されるようになった現実だ。

「底辺への競争」を国に要求するのは資本だ。資本の源泉は今や年金などの国民の貯蓄だが、法外な成果報酬制度の導入などで、企業経営者と機関投資家の利害は短期利益志向で一致し、資本と労働の分配は資本に偏る。労働者(被用者)と投資家(受益者)の顔を持つ国民(利害関係者)の、市場を通じた均衡ある分配という予定調和の想定は崩れ、格差の拡大と社会の分裂を招いている。

グローバル化を無批判に受け入れて市場におもねり、金融と財政で将来の利益と需要を先食いする一方で、(企業の)税負担を逃れる行動を放置すれば、社会と政治、経済そのものが持たなくなる。

・・・コラムの筆者であるペンネーム「混沌」(おそらく特別編集委員の末村篤)氏の指摘は、現在の経済社会の根本問題だと思われる。それは、水野和夫や佐伯啓思の問題意識にも重なる。水野先生のいう「資本の反革命」は続いているし、佐伯先生の「市場主義批判」が止まることもないだろう。

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