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2013年5月24日 (金)

デカルト的考える糞袋

身も蓋もない言い方というのがある。さしずめ「人間は糞袋」という言い方は、その最たるものだろう。だから、本屋で『糞袋の内と外』(朝日新聞出版)が目に付いた時は、いささか呆れてしまったわけだが、内容は妙に哲学的だったので読むことにした。著者の石黒浩は、自分そっくりのアンドロイドを作っちゃったことで知られる先生である。

で、「糞袋」という言葉が出てくるのは、ほぼ最初の部分に限られていて、メインは「私」が「考える」とか「生きる」とかの話。全体的に平易な文章だが、語られていることは深い。読んでいると、哲学者の名前がちらほら思い浮かぶが、特に強く感じられるのはデカルト。例えば以下のような部分とか。

この物理的身体と、いわば精神的な現象である「私」との関係は少々複雑である。簡単に言えば、「私」と「私の体」は同一ではない。
「私の体」は物理的な実体であるがゆえに、その説明はたやすいが、様々な物事を感じる主体でありながらも、実体を持たない「私」は永遠に説明できないものとして取り残されていく。

自己意識のことを考えるといつも不思議に思うのは、自分が世界の中にいるのか、世界が自分の中にあるのかということである。
考えることが自由になることだ。自由は自分の思考の中にある。
自分の思考の世界に入り込むと、まるで世界が自分の中にあるように思える。

・・・哲学的思考はデカルトに限らず、「独我論」へと誘惑されやすいものだ。しかしこのカルテジアンは、社会のことも非常に強く意識している。例えば以下のような部分。

他人や社会は自分を知るために必要不可欠なものである。
他人とつながることと、自己に目を向けることを頻繁に繰り返しながら、人はその社会の中で自分を探している。

人間の最も人間らしいところの一つは、非常に抽象的な言葉を皆で共有している点であろう。「心」「感情」「意識」「生死」そして「人間」という言葉。その実態は不明確ながらも、おそらくそう呼ぶであろうものが存在すると皆が信じている。

人間の定義は人間の個体にあるのではなく、社会関係の中にあるように思う。

人間が不思議なのは、人間のことも他人のことも、そして自分のことも知らないままに、他人と関わり、社会を構成しているという点である。すなわち、「信じる」ということだけで構成されているのが、この人間社会であるかのようにも思える。

・・・人間が自分自身のことをよく知らないまま、抽象的な言葉を共有して、社会を作っているというのは面白い指摘。「私」が謎であるのと同じかそれ以上に、「社会性」も謎なのだと思われてくる。

石黒先生の哲学的思考は、ロボット工学を研究する中で、「人間とは何か」を考え続けるうちに形成されたもののようだ。そこはやっぱりユニークなところだと思う。

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