« 「正統と異端」のダイナミズム | トップページ | 日経平均4万円、かよ。 »

2013年5月12日 (日)

『世界史の構造』と「歴史の終わり」

柄谷行人が『世界史の構造』に至る思索を開始するきっかけになったのは、冷戦終結時に「歴史の終わり」が語られたことだった。雑誌「現代思想」5月号掲載「『世界史の構造』について」から、柄谷先生の語るところをメモする。

一口でいうと、『世界史の構造』は、ヘーゲルの哲学を唯物論的に批判するものです。私の考えでは、マルクスによるヘーゲルの批判は十分ではなかった。それをもう一度徹底的にやり直す必要があるのです。

私がそのように考えるようになったのは、1990年頃です。アメリカの国務省の役人だったフランシス・フクヤマが「歴史の終焉」といった。これはヘーゲルにもとづく考えです。この言葉が、世界的に流行した。

フクヤマが「歴史の終焉」といったとき、彼が意味していたのは、1989年の東欧革命は「自由・民主主義」の勝利を示すものであること、また、それは最終的なもので、これ以後にもはや根本的な革命はないということです。ある意味でフクヤマは正しかったといわねばなりません。現在の社会は、90年ごろの状態から、根本的に変わっていないからです。

現在、どこでも、つぎのような体制ができあがっています。たとえば、資本主義的な市場経済が進むと、必ず階級格差などの諸矛盾が生じる。しかし、そのままで放置することはしない。それを、国家による規制や援助によって緩和しようとする。私はこのような体制を、資本=ネーション=ステートと呼んでいます。

フクヤマが「歴史の終焉」といったのは、このような資本=ネーション=ステートが最終的なもので、それ以上、根本的な変化はないということを意味します。資本が強いと新自由主義的になり、ネーション=国家が強いと国家資本主義的になる。しかし、いずれも資本=ネーション=国家というシステムを超えるものではない。

「歴史の終焉」を越えるということは、資本=ネーション=ステートを越えるということにほかならないのです。

ヘーゲルは(『法の哲学』において)、自由、平等、友愛という三つの契機、あるいは、資本主義経済、国家、ネーションという三つの契機を、どれをも斥けることなく統合しようとした。いいかえれば、彼は、資本=ネーション=国家を、三位一体的な体系として弁証法的に把握したのです。

ヘーゲルの考えでは、資本=ネーション=ステートが確立されたのちに、もはや根本的な革命はない。ゆえに、そこで歴史は終わる、ということです。ヘーゲルの「歴史の終焉」という考えは、そういうことを意味するのです。

真に「歴史の終焉」を否定するのであれば、資本=ネーション=ステートを越えることが可能であるということを示さなければならない。そのためには、ヘーゲルの根本的な批判をする必要があるのです。

・・・柄谷先生は、経済的土台(下部構造)から出発するマルクスの思考を徹底するため、生産様式に替えて交換様式の概念を導入し、現実は理念的とするヘーゲルの見方も斥ける。

正直に言うと、柄谷先生が「歴史の終わり」あるいは資本=ネーション=ステートを超克しようとするその意志の在り様が、今ひとつピンとこないところがある。ヘーゲル批判によってオルタナティブを示すというか、要するに世界共和国を実現する「革命」の可能性を示すってことなんでしょうか。しかし資本=ネーション=ステートのシステムは、俗にいうグローバル資本主義と見て良いのだとすれば、自分にはグローバル資本主義=歴史の終わりは、動かしがたい所与の現実としか思えないのだな。

|

« 「正統と異端」のダイナミズム | トップページ | 日経平均4万円、かよ。 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/174032/51596049

この記事へのトラックバック一覧です: 『世界史の構造』と「歴史の終わり」:

« 「正統と異端」のダイナミズム | トップページ | 日経平均4万円、かよ。 »