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2013年4月21日 (日)

リンカーンの「闘い」

映画「リンカーン」のプログラム掲載「リンカーンの光と影~奴隷制度完全撤廃までの道程」(土田宏・城西国際大学教授)からメモする。

元来、リンカーンは存在している奴隷制度は保持するしかないと考えていた。奴隷制度を持たない北部の人々が南部の奴隷制度を批判すれば、必ず大きな対立となり、それは究極的にアメリカ合衆国の分裂につながると信じていた。

皮肉なことに、そんなリンカーンの大統領当選直後にサウス・カロライナ州が合衆国から脱退し、これに続いた6州と共に、新しい憲法を持つ「南部連合」を組織。1861年4月12日、ついに戦争に突入してしまった。

戦争を出来るだけ早く終え、戦死者を増やさないようにしたい一心で、リンカーンは南部に対してある提案をした。1862年9月22日のことだ。その内容は100日後の「1863年1月1日に合衆国と戦っている州や地域の奴隷をすべて開放する」だった。つまり、奴隷制度を維持したかったら、翌年の元旦までに戦いを止めろ、というのだ。

だが、南部は拒否した。そのために、リンカーンは指定した元旦に「奴隷解放宣言」を出さなければならなかった。

歴史に残る解放宣言が、実は一部地域の奴隷のみの開放にすぎなかった。また同時に、この戦争終結を目的とした「軍事措置」(としての宣言)は終戦後には効力を失うという問題があった。それは解放された黒人をまた奴隷に戻すという、非人道的な政策を意味する。終戦後には、解放された黒人たちの自由を確保したまま、同時に解放宣言の適用範囲外の北部諸州の奴隷を解放しなければならなかった。こうした問題を解決するには、奴隷制度を暗黙のうちに認めていた合衆国憲法を変えるしかない。

リンカーンは1863年秋、ちょうどゲティスバーグの演説をする頃、戦争の勝利を確信するとこの作業に取りかかった。戦争が終わる前に、憲法改正の手続きを終えるためだった。上院は1864年4月に憲法修正13条案を可決した。合衆国内のすべての奴隷を解放するという条項だ。しかし、下院では必要な3分の2以上の賛成を得ることができなかった。

1864年の大統領選挙で再選されたリンカーンは、いよいよ終戦が近づく状況のなかで、下院での可決を目指して必死の努力を続けた。この時の様子を忠実に描いたのが、このスピルバーグ監督の映画だ。

・・・この映画で、法案成立のため与党の票を固め野党の票も集める説得工作の展開を見ると、しょーもない感想ですが、「民主主義はめんどくさい」と改めて思いました。

個別の説得工作を担うのは大物議員やロビイストの役割。なので、大統領は「票を集めてこい!」と言うだけの立場。妻や息子との葛藤にも心を煩わされたりと、ヒーロー感は薄い。その辺が作品全体の評価にポジティブに働くのかネガティブに働くのか、ビミョーな感じでした。

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