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2013年3月24日 (日)

スペイン内戦の混沌

今年生誕100年のロバート・キャパの話題に接すると、スペイン内戦がどういう戦争か気になってくるわけですが、とりあえず第一次世界大戦から内戦に至る大まかな流れを以下に、『カタルーニャを知る事典』(田澤耕・著、平凡社新書)からメモします。

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、中立国であったスペインは戦争特需で好景気に沸いた。しかし、潤ったのは資本家ばかりで、庶民の所得は増えず、むしろ物価高騰によって生活は苦しさを増した。とくに自分の土地を持たない農民や、工員たちの生活は悲惨であった。

1917年に起きたロシア革命は、労働者や農民の革命に対する希望を大きく膨らませ、各地で地主や資本家に対する反乱が相次いだ。とくに、工業先進地域であったバルセロナでは、資本家を標的とするアナキストによるテロが頻発した。

このような混乱を収拾するには武力による厳しい統制しかない、と1923年、ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍が軍事クーデターを起こした。国内情勢は一応、安定したものの、プリモ・デ・リベラは徐々に独裁色を強め、労働者層のみならず資本家の支持も失った。そこに起こったのが1929年の世界大恐慌だった。スペインの国家財政は一挙に悪化し、プリモ・デ・リベラは1930年、退陣を余儀なくされたのだった。

1931年に行われた選挙では、共和制支持(つまり王政不支持)の諸勢力が大勝利を収めた。共和国政府は、軍隊の刷新や教育改革、大土地所有者の土地を収用して再配分する土地改革などに意欲的に取り組んだ。しかし、この政策は当然、地主、大資本家、教会といった旧体制の支配者層の反対にあった。また、恐慌の影響をまともに受けていた農民や労働者も、改革が不十分であるとして各地で暴動を起こした。

アサーニャ首相は混乱の責任を取って辞任、1933年の総選挙では右派が勝利を収めるに至った。一方、右派の支配に反対する社会主義者、左派共和主義者、労働組合など左派諸勢力は、それまでの意見の相違を乗り越えて「人民戦線」を結成した。
1936年の総選挙は左派、右派の間で激しい争いとなったが、結局、人民戦線派が勝利を収めた。新政府は再び改革に着手するが、右派は軍隊の右派勢力と結び、すでにクーデターを準備していた。

クーデターの火の手はまず、1936年7月にスペイン領モロッコで上がった。蜂起の失敗が相次いだものの、フランシスコ・フランコ将軍はモロッコに残された反乱軍を率い、ファシズム勢力のドイツ、イタリアの協力を得てスペイン本土に上陸した。こうしてスペインは2年半に及ぶ悲惨な内戦へと突入したのである。

ドイツとイタリアは一貫してフランコの反乱軍を支援し続けた。一方、イギリス、フランスといった自由主義国は、戦乱をスペイン国内に封じ込めたいという理由で、あるいはスペイン共産党を嫌っていたために不干渉政策を選択した。共和国側を支援したのはソ連とメキシコぐらいで、その規模は限られていた。自国の不干渉政策に不満を抱いた英仏米などの知識人は義勇兵としてスペインに赴き、国際義勇軍を結成した。

内戦期のカタルーニャの左派勢力は一枚岩ではなかった。内戦遂行の方針に関し、(内戦勝利と「革命」のどちらを優先するか)意見の異なる二つの陣営があった。両陣営は激しく対立し、ついに1937年、武力衝突に至った。激しい市街戦の結果、(革命優先派の)アナキストは敗北、マルクス・レーニン主義共産党が実権を握った。

1938年4月の、カタルーニャ南部エブラ川の戦闘。この戦いに勝利を収めて地中海に達した反乱軍によって、カタルーニャは孤立させられることになった。1939年1月、バルセロナは陥落、最後に残ったマドリードも3月に無条件降伏した。こうしてフランコ軍はスペイン全土を手中にしたのだった。

・・・スペイン内戦、その激しさや訳の分からなさは、内戦と革命がごちゃ混ぜの混沌状態となった戦争の性格に由来するものだと思われます。

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