« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »

2013年1月31日 (木)

中東政治の原点は「東方問題」

現代中東政治のパターンは、19世紀の「東方問題」(ヨーロッパ対オスマン帝国の外交紛争)の時代に形成された――『世界史の中のパレスチナ問題』(臼杵陽・著、講談社現代新書)の第一部(第5講)からメモする。

オスマン帝国(1299~1922)は多民族から構成されるイスラーム帝国ですので帝国内には非ムスリムの宗教共同体が多数存在しました。イスラーム法に基づく統治システムをもっているオスマン帝国は、帝国内の非ムスリムに対して、それぞれの宗派が宗教・伝統・習慣などを維持できるように、各宗派に広範な自治権を認めました。この宗教・宗派共同体を「ミッレト」と呼び、ミッレトの自治に基づく統治システムをミッレト制と呼んでいます。 

オスマン帝国内にはギリシア正教会、アルメニア教会、ユダヤ教会の三大ミッレトがありました。オスマン帝国が衰退すると、ミッレトは、宗教・宗派共同体から民族運動の場へと変化。換言すると、「民族集団」としての自己主張を行うようになって、オスマン帝国からの分離・独立を求めるようになりました。 

オスマン帝国衰退期の18世紀後半から19世紀後半までの約一世紀間に起こった東方問題は、ヨーロッパ側から見れば、英仏露墺などのヨーロッパ諸列強によるオスマン帝国領をめぐる外交紛争です。反対にオスマン帝国側から見れば、ヨーロッパ諸列強の介入によって帝国内の宗教・宗派紛争が激化させられてミッレト制が崩壊していく過程ということになります。換言すれば、東方問題を通じて宗教共同体の自治システムがオスマン帝国を内部から蝕んでいくことになったのです。 

例えばフランスはオスマン帝国内のカトリック教会あるいはローマ教皇の権威を受け入れた東方教会であるユニエート(合同)教会を支援し、ロシアはギリシア正教会を保護し、イギリスはユダヤ教徒やドルーズ派ムスリムを保護するといった宗教・宗派レベルの同胞同士の連携関係によって外交紛争が帝国内の宗教・宗派問題に転化され、宗教的な代理戦争のような様相を呈したのです。 

外交と内政が密接に結びつくという現代中東政治のパターンはまさにこの時期に形成されたものです。国内政治でありながら国際政治として現象し、その逆もまた可なり、だからです。換言すれば、国内政治と国際政治を切り離すことができないという現代中東政治の特徴です。

・・・イスラムの寛容が帝国内に認めた異教徒共同体の存在が、後に強大化したキリスト教近代国家が介入してくる口実となったのも皮肉な話だ。19世紀、バルカン半島に進出したロシアとオーストリア、とりわけロシアとの戦争を繰り返したオスマン帝国は、20世紀に入り2度のバルカン戦争を経て第一次世界大戦に突入。敗北から解体消滅への道を辿ることになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年1月30日 (水)

十字軍とレコンキスタの反ユダヤ

古代と中世のヨーロッパにおける反ユダヤの思想と運動について、『世界史の中のパレスチナ問題』(臼杵陽・著、講談社現代新書)の第一部(第2講と第4講)からメモする。

パウロをはじめとする初期キリスト教会の指導者たちは、ローマ帝国の(イエス処刑の)責任をユダヤ教徒に押し付けて、伝道の対象として異邦人(非ユダヤ教徒)を選ぶことになります。キリスト教のユダヤ教からの決定的な決別です。
キリスト教はその母体であるユダヤ教の律法を教義的に否定します。キリスト教が宗教的に自立するには原理的にユダヤ教を否定する必要があったのでした。そこにこそ、キリスト教には反ユダヤ教的契機が成立当初から内在したといえる理由があるのです。
 

中世キリスト教社会ではユダヤ教徒を嫌悪する差別感情が定着していったため、ユダヤ教徒の職業は制限されていくことになりました。1078年にローマ教皇グレゴリウス七世がユダヤ教徒に対し「公職追放令」を発布。すべての職業組合から締め出されたユダヤ教徒は、キリスト教徒には禁止されていた金融業に手を染めていきました。 

十字軍は、西ヨーロッパのカトリック教徒の国々が11世紀末から13世紀末までエルサレム奪還を名目として断続的に行ったイスラーム世界への軍事遠征です。十字軍はユダヤ教徒の迫害の歴史を考える場合、画期的な事件と位置づけることができます。この事件を境にユダヤ教徒への差別が新たな段階に入ったからです。ヨーロッパの「内なる敵」としてのユダヤ教徒がヨーロッパの「外なる敵」のムスリムと内通する不倶戴天の敵として位置づけられて、十字軍がユダヤ教徒への迫害に拍車をかけることになるのです。十字軍はユダヤ教徒を殺戮の対象にしていましたが、宗教的なレベルでの反ユダヤ主義が十字軍には刻印されているといわざるをえないのです。 

一方で、イベリア半島ではキリスト教徒によるムスリム追討戦争であるレコンキスタ(再征服運動)が展開していました。1492年1月、グラナダ王国のアルハンブラ宮殿にイサベルとフェルナンドの両王が入城しました。レコンキスタが完了した瞬間です。同年3月、両王は「アラゴンおよびカスティーリャからのユダヤ教徒追放に関する一般勅令」を発布します。その内容は、その年の7月末までにすべてのユダヤ教徒を領土から追放するというものです。

十字軍は同時に、イタリア・ルネサンスに先立つ「12世紀ルネサンス」と呼ばれるヨーロッパにおけるアラビア語からラテン語への翻訳運動という大きな波を生み出しました。この「12世紀ルネサンス」で重要な点は、西欧世界がイスラム文明に出会ったという事実です。
また、スペインのレコンキスタ運動の過程でも、トレドなどの都市でアラビア語の医学・数学などの文献が翻訳されました。とりわけ、イベリア半島のユダヤ教徒がこの大翻訳運動で果たした役割は特筆に値します。

・・・中世の終わりまでに、ユダヤ教徒はヨーロッパ社会の片隅に追いやられてしまったとも言えるし、その反面では金融や翻訳の活動を担うことにより社会の中で一定の役割を果たしていたとも言える。十字軍の戦争は、ヒト・モノ・カネの移動と共に異文化も運んだ。懐かしのポストモダン風に言えば、戦争とは「交通」である。とか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年1月27日 (日)

「物価上昇率2%目標」の無意味

安倍政権でこうなる!日本経済』で榊原英資氏は、財政破綻と円暴落を予想する藤巻健史氏を名指しで批判しているが、インフレ目標については、結論的に両者とも懐疑的な評価になっている。ただしその背景は、まるで異なる世界ですが(苦笑)。まず、同書から榊原氏の意見をメモ。

インフレターゲット2%については、私はあまり意味がないと考えています。というのは、私は「日本はデフレから脱却しなければならない」という議論そのものに、ほとんど意味がないと考えているからです。
古典的なデフレーションの定義は「不況下で物価が下がること」ですが、日本は不況を主な原因として物価が下がっているのではなく、東アジアとの経済統合をはじめとするグローバリゼーションやIT化の進展によって物価が下がっているのです。
無理やり2%のインフレに持っていく必要はないし、政府と日銀がインフレ率何%と協定すればそのとおりになる、というものでもないのです。そもそも日銀は、金融緩和をかなりの程度進めてきており、日銀がいくら金融緩和しても、企業がカネを借りて設備投資をしたり、個人がカネを借りて住宅その他の大きな消費をしないことこそが、大問題です。

・・・次は藤巻氏の意見。『ひとたまりもない日本』からメモする。

インフレターゲット論が再び声高に主張されているようですが、私は疑問に思っています。一番の理由はインフレ率、消費者物価指数と景気との相関性があまりないからです。景気を良くするのが最終目標で、インフレにすること自体は最終目標ではありません。それなら景気との相関関係が明確ではないインフレ率を日銀が目標にするのは無意味だと思うのです。
たしかにデフレだと不景気から抜け出せないのは事実です。しかし逆は真なりではなく、「インフレになれば景気が良くなる」かは疑問が残るのです。
バブルの経験からして「景気と間違いなく関係ある」のは不動産価格と株価です。もし、景気を良くするためのインフレ率を目標にするのだったら「不動産と株の上昇率」という「資産インフレ率」にすべきです。

・・・インフレ目標に対して、榊原氏は日本のデフレは構造的であるという観点から、藤巻氏は景気を良くする効果という観点から、両者ともにテンション低いです。

しかし結果として、インフレ目標導入宣言から円安株高となったわけで、結局相場が反転するきっかけを提供したということだから、政策そのものの是非と現実的な効果のほどは別にして、証券会社勤務の私としては、まいっかって感じです。(苦笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年1月19日 (土)

アルジェリアとフランスの「過去」

アルジェリアで起きた人質事件の新聞記事の中に、「旧宗主国フランスのオランド大統領が昨年末に(アルジェリアを)訪問したが、植民地支配を巡る歴史問題でしこりを残した」とあるのを読んで、「えっ、知らなかった」と思った。(汗)

アルジェリア出身のフランス作家カミュの自伝的小説を映画化した「最初の人間」が、フランスとアルジェリアでは公開されていないという話を聞いても、映画の時代背景であるアルジェリア独立戦争について明確なイメージが無かったので、そんなもんかなという感じしかなかったんだけど、どうやら今でも、両国の間には過去の嫌な記憶が根強く残っているのだと、あらためて納得した。

余分な話だが、今回の事件の現地は、カミュ的な太陽と海のイメージはまるで無い荒れた砂漠。なるほどカミュのアルジェリアは「地中海世界」なのだなと気づかされた。

で、アルジェリア独立戦争。1954年に勃発し、1962年アルジェリア独立で終了。8年間でフランスとアルジェリア双方合わせて100万人と言われる犠牲者が出た。現在では経済的関係を維持するなど対立関係には無いが、過去に対するフランスからの謝罪が無いことが、両国間の大きなしこりとなっている。

昨年、2012年の12月。独立50周年のアルジェリアを公式訪問したオランド大統領は、「私は植民地支配がアルジェリアの人々に苦痛を与えたことを認める」と発言。ただ明確な謝罪の表明をしたわけではなく、これは謝罪の必要性を認めるか認めないかでフランス国内の意見が大きく割れていることを反映している。とのこと。

どこの国でも、「過去の歴史認識」は厄介な問題だと思う。前提となる事実確認について、支配者の記憶と被支配者の記憶の非対称性は大きいだろうし、謝罪についても、どこまで許すか許されるかという判断は両者の間に相当落差があるだろうから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年1月14日 (月)

反ユダヤ主義の歴史

「ユダヤ人とイスラエル」がわかれば「世界の仕組み」が見えてくる』(宮田律・著、ワニブックスPLUS新書)の第三章「反ユダヤ・嫌ユダヤの思想――反セム主義の系譜」からメモする。

反セム主義(一般にはひろく反ユダヤ主義の意味で用いられ、またとくに近代反ユダヤ主義をさすことも多い)は、ユダヤ人が、パレスチナから追放されて、外の世界に移住していった時から始まった。 

ユダヤ教が持つ「選民思想」が、ユダヤ人迫害の一つの大きな背景になってきたことは間違いない。紀元前63年にローマの軍司令官であるポンペイ・ザ・グレートがエルサレムを占領すると、ユダヤ教を否定し、ローマの神々を信仰するように強制した。ローマ人は抵抗するユダヤ人をパレスチナから追放し、およそ100年間にわたってエルサレムを支配し続けた。 

ナザレのジーザスとその支持者はユダヤ教を否定し、キリスト教が誕生することとなった。多くのクリスチャンは、ユダヤ人がキリストに死をもたらしたと考えるようになった。キリスト教の理論家であるパウロは、ユダヤ人が主イエスを殺害したと訴えた。そして、キリスト教がローマ帝国の公式の宗教(国教)に採用されて以来、反ユダヤ感情は深刻なものになっていく。 

ユダヤ人は、キリスト教の信仰を頑なに拒み、そのためクリスチャンの側は、ユダヤ人を異端、あるいは不敬虔ともみなすようになった。4世紀のアウグスティヌスから16世紀のマルティン・ルターまでのキリスト教の主要な神学者たちも、ユダヤ人を神への反乱者、またキリストの殺人者と表現するようになった。 

1096年に最初の十字軍が組織された時、組織的な反セム主義の行動が現れることになる。中世ヨーロッパにおいてユダヤ人は市民として認められず、時の経過とともに、多くのユダヤ人は中央ヨーロッパから追われ、ポーランドやロシアに住み着いていった。 (後の19世紀に当地でポグロム発生)

中世後期になるとヨーロッパで商業が盛んになり、ユダヤ人のなかには貿易、金融、金貸しなどで成功を収める者も現れ始めた。しかしそのことがクリスチャンの側のさらなる反発を招いた。ユダヤ人の経済的成功に対する妬みと従来の宗教的偏見が結びついて憎悪が増幅されたのだ。 

啓蒙時代を経るとヨーロッパ社会はより世俗的になり、ユダヤ人はヨーロッパ社会に統合されていった。しかし、他方で反セム主義の政治的形態も現れるようになっていく。さらに19世紀になると、似非科学者たちが、ユダヤ人に関する人種論をもちだしてくる。 

ヨーロッパにおける反セム主義が頂点に達したのは、よく知られている通り、アドルフ・ヒトラーのナチス政権下でのことであった。ヒトラーは『わが闘争』の中でユダヤ人を邪な人種としてとらえ、ナチスの反ユダヤ主義は、ヨーロッパに旧来あった反セム主義という宗教的な偏見に、人種的な蔑視を加えていった。ナチスはユダヤ人を宗教集団ではなく人種としてとらえたのだ。ナチスの政治的で人種的な反ユダヤ主義の究極的目的は「絶滅」であった。アウシュヴィッツなどの絶滅収容所で600万人とも見積もられるユダヤ人が虐殺された。

・・・宗教的反感から社会的差別、さらには政治的イズムに至り、最終的にナチス・ドイツによる大虐殺に逢着したヨーロッパのユダヤ人迫害の歴史は、まさにキリスト教世界の暗黒面というほかない。日本人にはさっぱり分からないよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年1月13日 (日)

「督促OL」の学ぶ力

信販会社のコールセンターに配属された新人OLが、電話口で顧客に怒鳴られながらも試行錯誤しつつ、年間2000億円の支払い延滞金を回収するまでに成長する――『督促OL修行日記』は、何となく気になりながら読まないできちゃった本ですが、「日経ビジネスアソシエ」2月号に紹介記事があったので、以下に「督促OL」榎本さんが編み出した、「逆ギレ」する客への対策5つをメモします。

1 疑問を投げかける
「人間の脳は疑問を投げかけると無意識にその回答を考え始める」という論理学の書籍からヒントを得た榎本さんは、「いつまででしたらご入金いただくことが可能でしょうか」「期限が厳しそうならいくらでしたらお支払いいただけますか」などと、質問形式で切り出すようにした。

2 太ももをつねる
動物学者の著書に「驚いて固まるのは動物の本能。下肢(足)には本当の気分が表れやすい」と書かれていた。そこで、(怒鳴られて)固まったらグッと足を踏ん張ったり、太ももをつねってみることに。すると即座に金縛りが解け、交渉を再開できるようになったという。嘘のような本当の話。

3 「謝罪2+感謝1」で話す
榎本さんは、「朝早くお電話をして申し訳ございません」という謝罪から入ることを心がけた。「何に対しての謝罪なのか」を伝え、「お時間を頂いてありがとうございます」と加えるなど、「謝罪2+感謝1」のバランスで話すことが大事という。

4 罪悪感を刺激する
心理学本に書かれていた「人間がつい無意識に動かされてしまう3つの感情『恐怖心』『義務感』『罪悪感』」の「罪悪感」を(約束を破った客に)利用。「お客様が10日にご入金してくださるとおっしゃるから、お待ちしていたんです・・・」と罪悪感を刺激。

5 ゆっくり丁寧に話す
「貴重なお時間をありがとうございました」など、短く、分かりやすい言葉を付箋に書き、パソコンに貼った。焦ったり動揺した時、頭に血が上った時も、付箋を見れば冷静に対応できた。自信があるようにゆっくり丁寧に話すことも心がけた。

・・・ストレスに悩まされ、同期の人も次々離職していく中で、危機感を覚えた榎本さんは、ストレスマネジメントや成果を上げる方法などを本やセミナーで学び、徹底的に研究。すると、怒る客の傾向と対策が見えてきて、自分の心を守りながら、回収率を上げることができるようになったという。(しかし債務者に怒られるって理不尽だね)

企画プロジェクトの目標達成のような華々しさは無いけれど、これもまた立派なサクセスストーリーだ。「気弱」と自らを評する榎本さんだが、課題を克服しようとする意志、あらゆるものに学ぶ力は並大抵のものではない。見習いたいぞ。

記事の最後で、なぜ仕事を続けてこれたかについて榎本さんが、「一番の理由は気弱なので、辞めたいと会社に言えなかったことかもしれません(笑)」とおっしゃるのには私も(笑)でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年1月11日 (金)

社会保障改革を忘れるな!

本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(社会保障改革はどこへ行った)からメモする。

安倍晋三新内閣が誕生し、経済成長重視の政策へとシフトした。他方で、消費増税と一体的に行うべきであった、社会保障制度改革はほとんど話題にもなっていない。

田村憲久厚生労働相は就任後の記者会見で、増え続ける社会保障費を無理に縮めることはできず、保険料の負担増を抑える選択肢のひとつとして消費税を示した。これは現行制度の基本的維持という厚労省の主張を反映したもので、社会保障制度改革国民会議の結論を先取りしたものといえる。

年2.4兆円の社会保障給付費増加に対して、税や保険料収入はデフレ経済下で横ばいのままである。年金や医療費は高齢化でさらなる増加が見込まれ、5%程度の消費増税では数年も持たない。

給付と負担のギャップは一般会計からの補助金で賄われ、国債発行額が税収を上回る異常事態が続いている。状況を改善しなければ、日本国債への信頼が失われるのは時間の問題だ。

小手先の対策で社会保障費の膨張は止まらない。米独伊では、年金支給開始年齢の67~68歳への引き上げが予定される。長寿国の日本では、早期受給の選択肢も設けた上で70歳現役社会を目指すべきである。

低成長社会では、平均的サラリーマンは妻子を養うのも容易ではない。家族単位の被用者保険を自営業と同じ個人単位に変え、夫婦が共に働き、共に子育てをする働き方を基準とすべきだ。

人口変動の波は確実に襲来する。国民会議任せとせず、官邸主導で必要な改革を国民に説得することが、国民の信頼を得て長期政権への道を開くといえる。

・・・景気対策と構造改革は同時進行できないのかなと、よく思う。過去の政権で言えば小渕も小泉も、というのは無理なのか。今のところ新政権は景気対策に軸足を置いているわけだが、構造改革だって当然大事。大体「アベノミクス」とか言っても、金融緩和と財政出動って、フツーの経済政策だろ。持続可能な社会作りのために、より困難な制度改革にも粘り強く取り組んでほしいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年1月10日 (木)

勘三郎の「治療死」

待ってました近藤誠先生。「中村勘三郎さん がん治療への疑問」(文藝春秋2月号掲載)からメモする。まずは治療経過の確認から。

2012年6月、人間ドックの内視鏡検査で食道がんを発見。抗がん剤が二度打たれた。引き続き、7月27日に食道の全摘術。容態は8月末に急変。肺炎から急性呼吸窮迫症候群(ARDS)を発症し、呼吸困難に陥る。ARDSの治療のため、二度転院されたが死亡。 

食道全摘術は果たして妥当だったのか。結論を先にいえば、手術を選ばず、放射線治療にしておけばよかった。食道を残せるし、生存率は同じだからです。 

放射線では食道が残るので、治療が終れば、正常な日常生活に復帰できます。これに対して手術では、生活の質が大きく損なわれてしまう。まことに手術は「人工的な大ケガ」なのです。 

勘三郎さんの場合、肺炎からARDSになったといいますが、肺炎を起こした原因は何か。ARDSを発症する危険性を高めたのは抗がん剤ではないでしょうか。抗がん剤で生じる肺炎には二種あります。一つは、細菌やウイルスによる肺炎で、抗がん剤で白血球が減るために生じます。別のタイプは間質性肺炎です。抗がん剤が肺胞壁を障害し、それに反応して炎症が生じてしまうのです。 

では、どうしたら勘三郎さんは治療死を避けられたのか。 

私見では、食事が喉につまる等の症状がないのに健診や人間ドックで発見された食道がんの場合、長生きし、生活の質を保とうと思ったら、手術も放射線も抗がん剤も受けず、がんと診断された事実を忘れるのが一番です。 

理由は、初期のがんであっても、他臓器に転移していれば、どのように治療しても治らない。他方、転移がなければ、食道がんといってもオデキのようなものだからです。 

その(病巣が増大して治療を検討する)場合の方法も、手術ではなく、放射線治療にしておく。また、抗がん剤は遠慮する。高齢になるほど、喫煙経験があるほど、抗がん剤は危険になります。 

勘三郎さんは、がん早期発見神話と医者の(自分たちの仕事量を増やそうとする)犠牲になってしまったとしか評価できないのです。

・・・がんよりも抗がん剤が恐い。自分の記憶では20年前も、逸見政孝アナウンサーのがん死について近藤先生は、かなりの臓器を取ってしまう大手術の後に、さらに抗がん剤を入れたことで死期を早めたと指摘していた。つまり、今回の勘三郎のケースと概ね同様のパターン。どうやら日本のがん治療における手術または抗がん剤中心主義は、大きくは変わってないらしい。医者には用心せよ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年1月 8日 (火)

マグロ1匹1億5千万円!

去る5日、築地市場の初セリで、青森県大間産のクロマグロが1匹1億5540万円の史上最高値を付けた。過熱する初セリに関係者も困惑気味らしい。本日付日経新聞の商品市場面の記事からメモする。

マグロをセリに出した美吉丸水産の竹内薫社長。70万円が1匹でなくキロ単価と聞くと「目が飛び出るほど驚いた」という。
今季の漁が始まった昨年夏以降、大間産のマグロの最高値は昨年末の2万円台半ば。大間漁協の伊藤幸弘販売課長は「最初はキロ7万円の間違いだと思った。70万円は魚の値段じゃない」とあきれ気味だ。

落札したのは昨年に続いて「すしざんまい」を運営する喜代村(東京・中央)。落札額に基づくと1貫あたりの原価は2万~3万円、外食店の一般的な原価率3割を当てはめれば販売価格は6万~10万円が妥当だが、同店では128円からと定価で提供した。

マグロ1匹の収支としては大赤字だが「マスコミでの露出を広告宣伝費に換算すれば数億円以上」と電通総研の四元正弘研究主席。5649万円を投じて初セリで最高値のマグロを落札した2012年9月期の売上高は192億円で前の期比26%増。新規出店を除いても年商を30億円前後押し上げる主因になった。大手回転ずしの広告宣伝費は売上高の2~3%。喜代村がマグロ1匹に1億円以上をかけても元は取れる。

個々の経済合理性に従って望む人がいる限り、価格が上がるのはセリの宿命。しかし近年の初セリでのマグロ高騰に関係者の多くが違和感を覚えるのも事実だ。

近年、喜代村と最高値を競り合ってきた銀座の高級すし店は今年、早々にセリを降り、最後まで競った香港資本のすしチェーンも来年は撤退する方針だ。一線を越えた感から当事者たちにもしらけたムードが漂い始めた〝マグロ狂想曲〟。もしかすると今年が見納めになるかもしれない。

・・・絵画とか美術品ならまだ分かるけど、マグロに1億5000万円は、やりすぎ!としか言いようがないな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年1月 7日 (月)

南北戦争とかリンカーンとか

今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」。その初回冒頭に置かれたのは、何とアメリカ南北戦争(1861-1865)のシーン。この戦争で使われた武器は海を渡り日本に入って、幕末の動乱を一層激化させる。そのピークが戊辰戦争(1868-1869)だ。

同じ頃に日米両国で内戦をやっていたのも妙な感じだが、驚いたのは南北戦争の死者62万人、という数字。調べてみると、第二次大戦のアメリカ軍の戦死者数が40万人とあり、南北戦争はアメリカ史上最悪の死者数を出した戦いなんだそうだ。期間も丸4年、太平洋戦争より長く続いたわけで、これはもう大戦争というか、アメリカという国は内戦のスケールも違うなと、今さらながら驚いたり感心したり。(苦笑)

そのアメリカは今、リンカーン・ブームなんだそうである。ひと月前の日経新聞(2012.12.2付)記事(「財政の崖」リンカーンに学べ)から以下にメモする。

今、米国は何度目かのリンカーン・ブームに沸いている。リンカーン研究の第一人者で、米メトロポリタン美術館に勤めるハロルド・ホルツァー氏も「これだけリンカーンのことを皆が知りたがっている時は記憶にない」と語る。 

リンカーンは共和党員だが、その人気は党派を超える。歴代大統領もしばしばリンカーンの言葉を引用している。民主党員のフランクリン・ルーズベルトは、黒人票の獲得と第2次大戦に向けた国威発揚をねらって、リンカーンを引き合いに出した。近年ではオバマ大統領のリンカーン好きは群を抜く。 

「分裂する家は立ちゆかない」と米国の統一を訴えたリンカーン。オバマ大統領も「1つの米国」を掲げたが、就任から4年近くたっても、政府のあり方や社会保障、財政などで大きく割れる米国をまとめきれない。 

リンカーンは(奴隷制度を禁じる)憲法修正に反対する議員の翻意を促すために、資金供与や職の口利きによる買収工作などあらゆる手段を使った。「買収は今では許されないが、『今すぐにこれをなし遂げなければならない』とテーブルに拳をたたきつけて説得し、国民を導いたやり方は今でもできるはずだ」とホルツァー氏は言う。

・・・今どきは、断固たる指導者への郷愁が、いずこの国にもあるようです。スピルバーグ監督の新作映画「リンカーン」も、4月に日本公開の予定。最近やってたのは、リンカーンが「バンパイヤ・ハンター」として活躍する映画だったな。(苦笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年1月 4日 (金)

映画「最初の人間」

フランスの作家アルベール・カミュの生年は1913年、没年は1960年。今年は生誕100年に当たる。そして今日1月4日は、カミュが自動車事故で死んだ命日でもある。ということで、公開中の映画「最初の人間」を観た。作家の「遺作」を映画化した作品である。

場所は岩波ホール、昨日1月3日の初回を鑑賞。もしかするとガラガラでゆったり見られるんじゃないかとも期待したのだが、年齢層はやや高めなのは当然としても、ざっと見た感じで客席の半分くらい埋まっていたのは結構意外だった。

原作の「最初の人間」は自伝的作品であることから、映画の主人公も、アルジェリアで生まれ育ったフランス人作家。時はアルジェリア独立紛争の頃、故郷を訪ねた主人公が母や叔父、恩師や同級生と再会していく流れに重ね合わせて、その少年時代も描き出していくという、文字通り作家の自己確認の物語となっている。

全体的に淡々とした描写が続くので、あんまり感想らしい感想もないのですが(苦笑)、とりあえず「作家の義務とは、歴史を作る側ではなく、歴史を生きる側に身を置くことです」という主人公の言葉が印象に残りました。

この作品は時代背景がビミョーなせいか、昨年末の週刊新潮の記事によると、フランスとアルジェリアでは公開されてないとのこと。旧植民地と旧宗主国との間の嫌な記憶が呼び起こされる、ということなんでしょうか。

で、そもそも「最初の人間」は遺作というか、創作の途中で作家が死去して残された草稿が、死後30年以上経過した1994年に出版されたものなので、完結してないのはもちろん、作品以前の資料と言ったほうが良さそうなものだと思われる。

でも、そういう「遺作」が敢えて出版され(フランスではベストセラーになったらしい)、さらに時間が経ってから映画化もされるという事態を生み出す作家というのは、あまり例を見ないような気がする。死後も長きに亘り人々の関心を集めるカミュの持つ力、それは一体どこから来ているのか?

しかし、いま日本でカミュを読む人っているのか?(とりあえず「異邦人」は、新潮文庫の売上上位にあるそうですが)

自分はというと、若い頃にカミュの作品に感動したという覚えはあまりなくて、もっぱら「カミュの手帖」(新潮文庫、絶版)と名付けられた創作ノートを眺めながら、太陽、海、死といったカミュ的ムード?に浸っていたような気がする。(苦笑)

もう一つ言うと、カミュという人はニーチェの影響を圧倒的に受けていて、それは個人的には凄く納得するものがあったのは確かだ。

どうもカミュは凄い作品を書く作家というよりも、その文学的キャラが凄く気になる作家だという感じがする。それが自分にとってのカミュの持つ力なんだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2013年1月 3日 (木)

スペイン、「ハポン」さんの町

昨日の午前に、NHKで「サムライたちスペインへ渡る~慶長遣欧使節400年の謎」という番組をやっていたので見た。

慶長遣欧使節とは、今からちょうど400年前に、伊達政宗がスペインに派遣した使節。政宗はスペインとの直接交易を望んでいたとのことだが、実は使節出発の2年前に三陸地方が大津波に襲われて被害が出ていたことから、復興事業の一環として交易の実現を目指したのではないか、というのが番組の中で示されていた仮説。

政宗の仙台藩は自前で全長50メートルの大型船を建造。慶長18年(1613)9月15日、団長の支倉常長、宣教師ソテロ以下、日本人140人が乗り込んだ「サン・ファン・バウティスタ」号は石巻の港を出発。太平洋を横断し、3ヵ月後にメキシコに到着した。そこから半年後に30人程がスペイン艦隊の船に乗り、大西洋を渡る。スペインのセビリアに着いたのは、日本を出発してから1年後のことだった。

1614年12月、使節団一行は首都マドリードに到着。支倉常長は直接、スペイン国王フェリペ3世に交易を願い出る。その後常長はキリスト教に改宗。ローマ教皇パウロ5世にも謁見を果たすなど、交易実現のため懸命に努力したが、結局は国王からの承認を得られないまま、1620年に帰国する。

慶長使節は天正少年使節に続く、日本人のヨーロッパ訪問という一大プロジェクトであり、これがあるから伊達政宗は偉大だったと評価しても良いくらいなんだけど、どうも教科書的に扱いが小さいのは、時代がキリスト教の禁止、さらに鎖国に向かう中で、その後の国際交流の展開に繋がらなかったせいなんだろうか。

番組の中で、へぇ~って感じだったのは、セビリアに近いコリア・デル・リオの町。人口2万4000人のこの町には、スペイン語で「日本」を意味する「ハポン」さんが約650人いる。伝えられるところでは、常長の使節団のうち10人が帰国することなく、この町に残った。それが「ハポン」の名前の由来と考えられるという。遠い昔の遠い国との国際交流の痕跡が今も残っていることに、ちょっと不思議な思いに捉われた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »