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2012年12月 2日 (日)

「罪をあがなう」とは?

以下は、『神を哲学した中世』(八木雄二・著、新潮選書)からのメモ。

どのあたりから一般のキリスト教徒がもっている信者らしさを生じているのかと言えば、旧約聖書に伝えられているユダヤ教信仰の信仰心である。キリスト教徒の心情を知るためには、新約聖書よりも旧約聖書に頼る必要がある。 

(旧約聖書の)『詩篇』を読むことは、キリスト教がもつ歴史的背景を知るうえでも重要である。たとえばキリスト教には「罪をあがなう」という言葉がある。あがなうとは、辞書によれば、買い戻すという意味である。罪をつぐなう、と言うのならわかるが、罪をあがなうとはどういう意味か。しかし『詩篇』を読んでいると、そこには日本人が知らない背景があることに気づかされる。 

すなわち、人間は神を主人として、その神に仕える奴隷であってよい、という心情である。神こそが本当の良き主人である。ところが、その神に仕えることができず、他のものの奴隷になっている身が、今のつらい状態である。自分は今、悪い主人の奴隷でいる。願いは、良き主人に「買い取って」もらうことである。 

これが、「罪をあがなう」という言葉でイメージされる人生である。それはつらい日々を耐えたのちに神が実現してくれる良き人生であり、天国に行くことである。 

こうした感覚は、奴隷売買がふつうであった時代の感覚であり、国民が国王の権力の前でなすすべもない、ということがふつうであった時代の感覚である。それが『詩篇』を通じて、キリスト教信仰の基盤となっている。

・・・キリスト教は「奴隷道徳」であるとニーチェは言った。キリスト教の「ルサンチマン」感覚、それは多くユダヤ教的心性に由来するのだろう。しかし、もともとは大昔の地域限定の教えが、やがて地域も時代も超えて大きく広がっていくというのは、やっぱり「ふしぎなキリスト教」だなあ。

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