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2012年12月 3日 (月)

佐藤優の講演会で

昨日2日、八重洲ブックセンターで開催された佐藤優の講演会に出かけた。できれば尋ねてみたいことがあったので、会場の入口で質問を書くためのメモ用紙を渡された時、非常に有り難いと思った。知りたかったこと、それは『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸の共著、講談社現代新書)に対する評価である。

先月、「ウェブ平凡」の中で、佐藤氏の同書に対するポジティブな文章を見つけた時、少々意外に思った。というのは、発行当初から同書は「間違いだらけだ」とネット上で批判(本も出ている)されており、信仰者(佐藤氏もクリスチャン)の評価は基本的にネガティブだという印象を持っていたので。そんなこともあり、ご本人にもう少し詳しく聞いてみたいと思った次第。

講演(政治と歴史の話)は45分、その後質問応答タイムが45分。メモで集められた質問にすべて答える(20問以上はあったと思う)という大サービスぶり。で、自分の質問に対する答えは大体以下のようなもの。

『ふしぎなキリスト教』に関する、キリスト教側の人の批判は、本当に瑣末な重箱の隅を突いた細かい事実誤認の指摘で、ポッパーの反証主義の手続きからすると、それで橋爪さんや大澤さんの言ってることが崩れるわけではないのです。あとは高踏的な批判――信仰や聖書学が分かってないとか、ギリシャ語を知らないとか、これは意味がない。
橋爪・大澤はキリスト教という現象にまじめに取り組もうとしている。日本人はキリスト教を知らないし、人権とか国家主権の発想はキリスト教の中から出てきている、そういう大づかみのものの見方としては正しいですよ。
たとえばマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』は、ユダヤ教の律法学者から見れば、間違いだらけじゃないかという話になります。しかしだからといって、この社会学的アプローチが意味を持たないということではないですね。

・・・信仰者の批判に対する信仰者の反批判に乗っかって、自分も少し感想を述べると、同書は「最強の入門書」と称するに値しない駄本であると批判者は言うのだが、版元の販売フレーズであろう「最強の入門書」に拘るのは、どうもポイントがズレてる気がする。また、「こんなに誤りの多い本が受け入れられてしまうのはなぜだろう」という思いも、批判者にはあるようだが、一般読者は間違いと指摘されないと間違いが分からないレベル(自分が基準です。苦笑)なので、間違いの多い少ないと売れる売れないは関係ないのです、たぶん。

要するに同書を客観的なキリスト教の「入門書」として読んでいる人が多いとは思えないし、むしろ読者の大半は「橋爪・大澤から見たキリスト教の本」であると了解しているだろうから、同書を「誤りだらけの入門書」と評価するのは、基本的に批判の方向が間違っていると思う。もちろん誤りの指摘そのものは一般読者にも有益なのだが、どうもその目くじら立てる批判の姿勢には何か嫌なものを感じる。あるいは「駄本」が売れるとキリスト教が誤解されるという危機感があるのかも知れないが、何か余裕のない振る舞いに見えるのだな。

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