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2012年11月 9日 (金)

「歴史」の要らない社会?

歴史というものは、人間の社会にとって、本当に必要なのだろうか。こう自問するのは、ほかならぬ歴史学者の與那覇潤。今週の「週刊東洋経済」(11/10号)掲載、同氏執筆のエッセイからメモする。

個人的には、ことの始まりは3年前である。2009年、幕末の横浜開港から150周年を機に、同市では「開国博」を謳って大イベントが打たれたが、これがまったく盛り上がらない。逆に盛況をきわめたのは、なんと「機動戦士ガンダム」30周年の方で(TV初放映が1979年)、ついに日本ももう、「歴史」なんて要らない社会に入ったのかな、と思った。 

(「リアル歴史」よりも「架空歴史」の方が日本人の心をつかむ現状に対して、例えば日本と中国や朝鮮の間に「歴史問題」が存在することを強調する人もいるだろう) 

しかし、東アジアのどの国でも遅かれ早かれ、「戦争体験者がいない時代」は来る。自分自身の体験ではないという意味では、「リアル歴史」といっても誰もが、公教育のテキストであれ民間の小説やドラマであれ、なんらかの「物語」を媒介としてのみ追体験し、語り継いでいるにすぎないという世界は、遠からず出現するのだ。 

その時に私たちは、享受に当たって痛みを伴う「リアル歴史」の方を、それでも選んで生きるべきだといえるだけの基盤を持っているのだろうか。むしろ、国家単位での歴史の語り継ぎが、国際的な「歴史問題」を引き起こすなら、そんなものは捨ててしまうのが一番の解決策ではないか。 

ひよっとするともはやこの国は、トラブルの種にしかならない「歴史」を捨てたがっているのかもしれない。

・・・いろいろと考えさせられる話だと思う。もう20年以上も前になるが、「歴史の終わり」という言葉が言論界でちょっと流行ったことがあった。自由な民主主義社会が人類の目標であり、それが実現された社会は「歴史の終わり」に到達したという認識だ。

歴史という考え方は、人類の進歩を牽引するという西欧近代の自意識の産物でもある。そういう意味ではポスト近代社会とは脱歴史の時代に入った、歴史を「不要」とする社会であると考えることもできる。

もとより「史実」なるものも、多かれ少なかれ解釈の産物である。過去から離れれば離れるほど、確かな史実として言えることは少なくなり、解釈や物語の占める部分が多くなるのは避けられない。そして脱歴史社会は、歴史を「物語」として消費する。

思うのは、トラブルの種になるのは「歴史」というよりも「国家単位での歴史の語り継ぎ」であり、むしろ「歴史」ではなく「国家」を捨てることができれば、問題が起きることもなくなるのではないか・・・とか。

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