« 「標準家族」社会の崩壊 | トップページ | 「歴史」の要らない社会? »

2012年11月 8日 (木)

秀吉、「世界征服」の野望

去る11月4日は四国に遠征。JR徳島駅近くの徳島城博物館で、特別展「唐入り」の時代を見学した。展示は、「大陸出兵の顛末」に加えて、西国大名(島津、毛利、小早川、宇喜多、蜂須賀)と「唐入り」の関わりという、大きく2部に分かれる構成。比較的コンパクトで見学者も少ないし、じっくり回れた。展示品の所蔵先で目に付くのは、佐賀県立名護屋城博物館や大阪城天守閣など・・・まあそれはそうなりますね。

Photo

当日行われた学芸員さん(森脇崇文氏。若い。30歳くらいに見える)の講演も聴いてきた。聴講者は40人くらいか。思ってたよりも多い感じ。

先月の桐野作人講演でも同様だったが、学問的な歴史研究の話の中心は史料読解。森脇学芸員の講演で取り上げられたのは、豊臣秀吉の朱印状(天正20年5月18日付、豊臣秀次あて)。

天正20年(1592)4月13日、小西行長軍の釜山攻撃により、「唐入り」開戦(文禄・慶長の役)。日本軍は破竹の進撃を続け、5月3日には朝鮮の都である漢城(現ソウル)に入城した。首都陥落の知らせは、5月16日に肥前名護屋城にいた秀吉に届いた。秀吉はおそらく非常に高揚した気分で、秀次あて書状を認めたと思われる。

書状の前半は秀次に対する出陣準備の指示、後半で明国征服後の政権構想を述べている。それによれば、後陽成天皇を北京に移し、日本では新帝を即位させる。天皇を補佐する関白も明と日本に一人ずつ置いて、秀次は明の関白とする。朝鮮と九州も、豊臣一門で支配する。

しかし結局「唐入り」は挫折し、秀吉の国家拡張計画は実現することなく終わった。

・・・秀吉自身は、明の征服後は天竺も支配するつもりだったらしいから、当時としては「世界征服」の野望を燃やしていたと言っていいんだろうな。まあ後世から「誇大妄想」と見なされても仕方ない面はあるけど、明治維新前に対外戦争を仕掛けた唯一の権力者である豊臣秀吉は、やはり日本史上並外れた人物だったと改めて思う。

|

« 「標準家族」社会の崩壊 | トップページ | 「歴史」の要らない社会? »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/174032/47761337

この記事へのトラックバック一覧です: 秀吉、「世界征服」の野望:

« 「標準家族」社会の崩壊 | トップページ | 「歴史」の要らない社会? »