デカルトの理性、数学、神
戦争の続く混沌とした時代の中で、確実なものを求めたデカルトの哲学は、近代思想の出発点となった。『社会を変えるには』(小熊英二・著、講談社現代新書)「第5章 近代自由民主主義とその限界」からメモする。
ルネサンスから17世紀までは、ヨーロッパは戦乱につぐ戦乱、宗教戦争と革命の時代になりました。それまでの秩序がめちゃくちゃになった時代です。もう何も信じられない、信じられるのは自分の目だけだ。ここから近代思想が始まりました。その根幹が、近代的理性という考え方です。有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉を遺した、デカルトがその元祖といわれます。
まずデカルトは、感覚でつかめるものはあてにならない、と考えます。神こそが実在であって、この世に現れているものは、神が吹き込んだ恩寵によって存在しているだけだ、というわけです。ですから、「私が存在する」ということは、恩寵を与えてこの世に存在させた神が実在するはずだ、ということになります。
じゃあ中世と変わらないじゃないか、となりますが、ここからが画期的でした。そこで彼が見出したものが、数学でした。数式や幾何学の解釈は唯一無二です。感覚に惑わされることもなく、文化や宗派もこえていて、永遠に揺らぐことがありません。
では数学は、なぜ唯一無二の確信を、誰にでも与えてくれるのでしょうか。デカルトは『方法序説』で、神が創ったこの世の秩序の法則の観念を、神がわれわれの精神のうちにしっかりと刻みつけているからだ、と書いています。これは基本的にプラトンのイデアの考え方と同じです。
こうして世界を把握するのが、理性です。もちろんその理性は誰が与えたのかといえば、神です。だから私が理性を行使してこの世を把握しているということは、神とつながっているのと同じである。それによって揺らぐことのない確信を得ることができるのですから、「私は存在する」ということになるわけです。
・・・デカルトは17世紀前半の三十年戦争の時代を生きた。戦争終結と共に主権国家体制が確立した時代の中で、デカルトは主観的理性の哲学を打ち立てた。ということで、哲学も時代背景抜きには考えられない。
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