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2012年7月 8日 (日)

宗教改革と印刷技術

7月7日、朝日カルチャーセンター講座「神聖ローマ帝国とハプスブルク」(講師:皆川卓先生)の第4回を聴講して、活版印刷が宗教改革を可能にした、ということを改めて感じた。以下にメモ。

1440年頃、マインツ選帝侯国の市民グーテンベルクが、金属活字と活版と印刷機を作り出した。そして、この活版印刷術を用いた書籍(グーテンベルク聖書)を1455年に出版。以後、印刷術はヨーロッパに広がり、大量の印刷物が生産されるようになった結果、誰でも参加できる言論の世界が生まれた。

新たに出現した自由な言論の世界では、社会的権威とりわけカトリック教会に対する批判も活発化したが、その動きをリードしたのは、「人文主義者」と呼ばれる聖職者や大学人、法律家である。古代ギリシアやローマの文化を学んだ彼らは、教会の硬直した教条主義から自由になり、教養を積むことの大切さを説いた。特にエラスムス(1466~1536)は、学術的な著作を出す一方、安価なパンフレットも数多く作って教会批判を展開し、人々の拍手喝采を浴びた。

そしてマルティン・ルター(1483~1546)が登場する。1517年11月1日、彼はヴィッテンベルク宮廷教会の扉に「95箇条の論題」を貼り出す。そこでは、カトリック教会の堕落、とりわけ贖宥状(免罪符)販売が批判されていた。さらに彼は「論題」を印刷して帝国各地の都市で販売。これにより彼の主張が広く知られ、多くの支持を集めたことから、教会もルターを人知れず「抹殺」することはできなくなった。

1521年、皇帝カール5世は自説を撤回しないルターに「帝国追放」を宣言。さらに「検閲令」を発してルターの著作を「禁書」とした。しかし、プロテスタント諸侯は印刷物によるルター支持、カトリック批判を続行。ヘッセン方伯フィリップは、自分とルターの往復書簡を出版し、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒは反カトリックのパンフレットを作り続けた。

さらに1605年、ルター派の帝国自由都市シュトラスブルクから、新しいメディアが生まれる。定期的に発行される活字メディア、「新聞」である。プロテスタント諸侯は、新聞に客観的な記事の掲載と合わせて反カトリック的な論調を織り込み、世論の誘導を図った。これにカトリック側も対抗して1620年以降、ケルンやウィーンで新聞を発行。

しかし、三十年戦争(1618~1648)が進行する中、新聞は次第に相手側の批判に割くページが多くなり、読者離れを招くことになった。そして三十年戦争終結後は、新聞メディアは支配者層の世論誘導の手段から、「民間」の自由な意見表明の手段に落ち着くことになる。

・・・新しいコミュニケーション技術の発明、新しいメディアの登場、新しい言論世界の出現が、「宗教改革」という社会の変化、いわば「こんな教会はいらない」運動の展開を相乗効果的に加速した、と考えていいんだろうな。

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