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2012年7月31日 (火)

宇野常寛VS山口二郎

今週の「週刊東洋経済」(8/4号)、宇野常寛の連載エッセイ「お金には(たぶん)ならない」からメモする。タイトルは「今、二大政党制を問い直す」。宇野が出演したNHK「日曜討論」(7/15放映)に絡んだ話だ。

今の自民党と民主党に、はたしてどれだけの違いがあるのか。両党とも、反米から親米、新自由主義から社民路線、と一つの党の中に勢ぞろいしている呉越同舟政党であり、その結果、選挙のたびに出てくるマニフェストは両党とも最大公約数的な「緩いバラマキ」路線のものにしかならない。そもそも、事実上「ほとんど変わり映えのしない」二大政党制というもの自体、意味がない。

僕は番組でストレートにこの点を追及した。すると、政治学者の山口二郎氏と経済学者の浜矩子氏から、信じられない内容の応答があった。

両氏は共に二大政党制の推進と民主党政権の樹立を強力に主張してきた論客だ。山口氏は、この20年――つまり細川内閣からの20年――で進行した政界再編と政治改革を否定されること、つまり現状の二大政党制のマヒをもってしてこの20年の成果を否定されることは、自分の人生を否定されることと同じだと反発した。この際、山口氏の人生が肯定されるかどうかは論点でも何でもないと思うのだが、氏は実際にそう発言した。そして浜氏とともに、今は「忍耐」の時期で、二大政党制(&民主党政権)の成熟を国民は「待つ」べきなのだと主張した。はっきりいって国民をバカにしているとしか思えない。

・・・この「日曜討論」は自分も見たのだが、「宇野ちゃん、快調だな」という感じで、なかなか楽しかった。同じNHKの「ニッポンのジレンマ」出演時と異なるのは、年上世代が相手ということから、一見宇野ちゃんが討論の攪乱要因にも思われたけど、実はまっとうなことを言ってるのは宇野ちゃんなのだった。山口先生があの爬虫類の様な目付きで、「自分の人生を否定されたようだ」と告げる表情は何かクラ~イ感じがしたぞ(苦笑)。個人的には自分とほぼ同い年の山口先生よりも、20も年下の宇野ちゃんの話に共感するところ大だったな。

政権交代可能な二大政党制を目指して、えっちらおっちらやってきた日本の政治だが、ようやく形が整うまで20年もかかってしまい、どうやら二大政党制自体が時代遅れのものになりつつあるような気もする。二大政党制の本家である英国も今は連立政権だし、米国も二大政党への不信から無党派層が増加しているようだし・・・さて、この政党政治ってやつは、いつまで続くんだろうか。

(追記)今週号の内容を巡り編集部と軋轢が生じて、連載終了が決まったらしい。宇野ちゃんの書いたことには何の問題も無いぞ。東洋経済もケツの穴が小さいことよ。

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2012年7月30日 (月)

カール大帝、「聖戦」のはじまり

フランク王国のピピン、カールに始まるカロリング朝において、後の十字軍にまで至る「聖戦」思想が生まれた。7月28日の朝日カルチャーセンター講座「西洋中世史」(講師:甚野尚志先生)の内容からメモ。

フランクの王は血統によって決められていたため、メロヴィング朝末期に王国の実権を握っていたカロリング家のカール=マルテルも、血統権を踏み越えて国王の地位を奪うまでには至らなかった。しかしカール=マルテルの子ピピンは751年、王位についてカロリング朝を開始する。

ピピンの王位を可能にしたのは、ローマ教皇の与えた「お墨付き」だった。当時、ランゴバルド王国に脅かされていたローマは、「聖像崇拝問題」を巡る対立からビザンツ帝国の支援を得ることができず、フランク王国に接近。王は教会の保護者であるとして、ピピンの王位を認めた。そしてフランクはイタリアに進出、ランゴバルドを撃退しラヴェンナ地方を奪取。これを756年に教皇に寄進したのが、教皇領の始まりとなる。

カロリング朝において教会と王権が結びつく。ここに「聖戦」の思想が生まれた。既にピピンの時代から、フランク人は教会を守るために選ばれた民族であり、その使命はカトリック信仰を広めることである、とする物語が作り出され神話化されていく。フランク王国はキリスト教を広めるために領土を拡大する。異民族を征服してキリスト教に改宗させる。それは聖戦なのだ。

ピピンの次のカール大帝の時代に、この思想は一層強まる。カール大帝は異教徒の征服戦(ザクセン戦役など)を続け、各地を転戦する。版図の拡大に伴い、フランクは多民族国家となり、王国を統合する理念が必要になってくる。そこで持ち出されたのが、「帝国」だった。カールのブレーンであったアルクインは、「ローマ帝国の再生」を構想する。教皇権の再建による世界秩序の回復、すなわち帝国の再生。それはカールが皇帝になることで実現できる。800年、教皇レオ3世はカールにローマ皇帝の冠を授けた。ここに、西の「キリスト教帝国」が誕生した。

・・・古代ローマ帝国が後のヨーロッパに対して、いかにブランドまたはトラウマとして影響を及ぼし続けてきたか。あるいは、領土拡大に邁進する「新興国」に、キリスト教布教の意志が植え付けられることにより生まれた「聖戦」の思想が、後の世界にいかに大きな災厄を及ぼすことになったか。そんなことを考えてしまう。

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2012年7月 8日 (日)

宗教改革と印刷技術

7月7日、朝日カルチャーセンター講座「神聖ローマ帝国とハプスブルク」(講師:皆川卓先生)の第4回を聴講して、活版印刷が宗教改革を可能にした、ということを改めて感じた。以下にメモ。

1440年頃、マインツ選帝侯国の市民グーテンベルクが、金属活字と活版と印刷機を作り出した。そして、この活版印刷術を用いた書籍(グーテンベルク聖書)を1455年に出版。以後、印刷術はヨーロッパに広がり、大量の印刷物が生産されるようになった結果、誰でも参加できる言論の世界が生まれた。

新たに出現した自由な言論の世界では、社会的権威とりわけカトリック教会に対する批判も活発化したが、その動きをリードしたのは、「人文主義者」と呼ばれる聖職者や大学人、法律家である。古代ギリシアやローマの文化を学んだ彼らは、教会の硬直した教条主義から自由になり、教養を積むことの大切さを説いた。特にエラスムス(1466~1536)は、学術的な著作を出す一方、安価なパンフレットも数多く作って教会批判を展開し、人々の拍手喝采を浴びた。

そしてマルティン・ルター(1483~1546)が登場する。1517年11月1日、彼はヴィッテンベルク宮廷教会の扉に「95箇条の論題」を貼り出す。そこでは、カトリック教会の堕落、とりわけ贖宥状(免罪符)販売が批判されていた。さらに彼は「論題」を印刷して帝国各地の都市で販売。これにより彼の主張が広く知られ、多くの支持を集めたことから、教会もルターを人知れず「抹殺」することはできなくなった。

1521年、皇帝カール5世は自説を撤回しないルターに「帝国追放」を宣言。さらに「検閲令」を発してルターの著作を「禁書」とした。しかし、プロテスタント諸侯は印刷物によるルター支持、カトリック批判を続行。ヘッセン方伯フィリップは、自分とルターの往復書簡を出版し、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒは反カトリックのパンフレットを作り続けた。

さらに1605年、ルター派の帝国自由都市シュトラスブルクから、新しいメディアが生まれる。定期的に発行される活字メディア、「新聞」である。プロテスタント諸侯は、新聞に客観的な記事の掲載と合わせて反カトリック的な論調を織り込み、世論の誘導を図った。これにカトリック側も対抗して1620年以降、ケルンやウィーンで新聞を発行。

しかし、三十年戦争(1618~1648)が進行する中、新聞は次第に相手側の批判に割くページが多くなり、読者離れを招くことになった。そして三十年戦争終結後は、新聞メディアは支配者層の世論誘導の手段から、「民間」の自由な意見表明の手段に落ち着くことになる。

・・・新しいコミュニケーション技術の発明、新しいメディアの登場、新しい言論世界の出現が、「宗教改革」という社会の変化、いわば「こんな教会はいらない」運動の展開を相乗効果的に加速した、と考えていいんだろうな。

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2012年7月 1日 (日)

ヘッセン方伯フィリップの話

16世紀神聖ローマ帝国内で、プロテスタント同盟を主導して皇帝カール5世に対抗した男、ヘッセン方伯フィリップ(1504~67)。6月30日朝日カルチャーセンター講座「神聖ローマ帝国とハプスブルク」(講師:皆川卓先生)、第3回の内容からメモする。

13世紀から続く名門ヘッセン方伯国。フィリップは16歳で君主となり、政務に精力的に励む。官僚制、軍事、宮廷など国政の全面的な改革を進める一方、敵対者には容赦ない姿勢を貫き、騎士戦争やドイツ農民戦争では、多くの貴族や農民を処刑・虐殺した。やがて彼は、領国内の「治外法権」の場ともいえる教会領を所有するカトリック教会の堕落に対して激しく反発。カトリックへの軽蔑をあからさまに示すようになる。

時はまさしく宗教改革運動の始まりの頃。カトリック教会は無用とするルターの教えに、若きフィリップは熱狂。彼はルターから助言を受けながら、ヘッセン方伯国のプロテスタント化を進め、領国内の教会領を没収し、武力で教会を威嚇するなどの行動に出る。このような動きに対して、皇帝カール5世を始めとするカトリックの領邦君主たちは厳しい目を向けた。フィリップもまた、プロテスタントを押さえつけようとするカール5世への不信感を募らせていく。

ルターとの対話の中で、「領民を守るため皇帝と戦う」という大義名分を編み出したフィリップは、ザクセン選帝候ヨハン・フリードリヒはじめプロテスタントの領邦君主たちと共に、シュマルカルデン同盟を結成(1530)。プロテスタント領邦君主のリーダーとして、勢力の拡大を図る。

帝国内のプロテスタント勢力の拡大を座視できなくなったカール5世は、フィリップの婿であるザクセン公モーリッツを味方に引き入れて1546年、フィリップとザクセン選帝候を帝国から追放すると宣言。フィリップも兵を集めて対抗したものの、モーリッツが本家であるザクセン選帝候の領地に攻め込むと同盟軍は動揺。皇帝軍がミュールベルクの戦い(1547)で同盟軍を打ち破ると、不利を悟ったフィリップは降伏を申し出る。皇帝との仲介役となったモーリッツは、義父は許されるものと期待した。

ところが皇帝はフィリップを捕虜にしてしまったため、モーリッツには失望感と不満が残された。1552年、機会を捉えたモーリッツは反逆の兵を挙げ、不意を突かれた皇帝は敗走。この結果、フィリップは釈放された。

「帝国のプロテスタント化」という野望が潰えた後、フィリップは内政に専念し、世界最初の中等学校「ギムナジウム」を作るなど、教育政策に力を入れて生涯を終えたのだった。

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