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2012年6月24日 (日)

「魔女狩り」雑感

最近、カルチャーセンターで神聖ローマ帝国、中世史や中世哲学の講義を聴いていて、気分の中心は西洋中世に向いているのだが、そうなると自ずと思い出されるのが、いわゆる「暗黒の中世」に関わる話、特に「魔女狩り」、だ。

実は子供の頃から、魔女狩りは得体の知れない恐怖の対象として、心の底のどこかで気になっていた。子供心に不安な思いを与えたのは、少年マガジンの大伴昌司大図解だ。手元にある『復刻「少年マガジン」カラー大図解』(講談社、1989)を開くと、そこに怪獣や未来社会のイラスト解説に混じって、「魔女入門」なる特集(1970年7月12日号)を見ることができる。当時小学5年生の僕が、この特集の内容を理解できたとはもちろん言えないが、その得体の知れない印象、そして結語の「宗教と政治が結びついたとき、このような悲劇がおこるおそれがある」との言葉は、自分の心の中に深く落とし込まれたように思う。この特集の典拠は岩波新書『魔女狩り』(森島恒雄・著)で、同書奥付の第1刷発行日は1970年2月20日。なので、当時出たばかりの岩波新書をビジュアル化していたことになる。いやもうホントに、あの頃の少年マガジンは小学生の教養書だったとつくづく思う。大伴昌司は偉大だ!

さて、魔女狩りというと中世っぽいイメージだが、最盛期はルネサンスや宗教改革が始まった後に来るので、中世末期というか、むしろ近世の出来事なのだった。『図説魔女狩り』(黒川正剛・著、河出書房新社)によると、ヨーロッパ全土で処刑者は約5万人、1570年から1630年にかけて激化。多発したのは神聖ローマ帝国領内で、犠牲者の約半数が含まれる。17世紀後半になると、北欧や東欧、北米のイギリス植民地にも、魔女狩りの波は及んだ。

これももうかなり前の話だが、テレビの出来事バラエティ(?)番組で、セーラムの魔女裁判を取り上げていたのをたまたま見た時も、やはり得体の知れない感覚を覚えた。この17世紀末の植民地アメリカで起きた事件を基にした、「クルーシブル」という映画があるとのことだが未見。

たぶん既に古典であろう岩波新書『魔女狩り』を読むと、魔女裁判とは異端審問の新たな展開であることが説かれている。その異端審問制は、13世紀初めの異端アルビ派(カタリ派)殲滅(アルビジョワ十字軍)に始まる。・・・ということで、魔女狩りの意味を考えるとなると、「正統と異端」についても本を読まなきゃいけないらしい。はぁ。

魔女狩りにより、罪のない人が何万人も殺された。拷問そして嘘の自白、最後は火あぶり等の処刑。まさに狂気の沙汰。その歴史だけ見ると、西洋人は得体が知れないと思うほかない。とはいえ、極端に見える事象に物事の本質が示されている、というのはまま在ること。なので、ヨーロッパの陰画である魔女狩りには、ヨーロッパの本質が凝縮されていると言ってもよい。関心を持続しておきたい所以。「魔女狩りには、たとえば次のような事象が関係していた。古代ギリシア・ローマ神話の遺産、キリスト教による異教の弾圧、正統教会による異端の迫害、ユダヤ教徒をはじめとする社会的周縁者の差別、宗教改革・反動宗教改革、近世国家における家父長制の進展と女性の立場の悪化、科学革命、近代的思考の誕生・・・・・・いずれもヨーロッパの歴史や文化を考えていく上で重要な事象である」(『図説魔女狩り』の「あとがき」より)。

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2012年6月17日 (日)

UKライブ(2012)

昨年に続き今年もやって来たUK。15日金曜日と16日土曜日、川崎クラブチッタへ足を運び、来日公演2日目と3日目のライブを見た。

去年はエディ・ジョブソンとジョン・ウェットンのオリジナルメンバー2人に、サポートメンバー2人を加えた4人編成。自分が見た最終日は、ウェットン風邪ひいて酷い出来だった。(涙)

今年はエディとジョンにテリー・ボジオの3人、1979年来日時のメンバーで33年ぶりの復活という触れ込み。とりあえず抽選で金曜日のチケットが当たり、ヤフオクで土曜日のチケットを落札。ということで2日連続の参戦。

で、演奏は全く申し分ないライブ。これぞプログレ、だった。おそらく3日目の方が2日目より全体的に良かった感じ(ただし最初、バイオリンの音が聞こえてこないという噴飯ものの機材セッティングミスあり)。特にボジオは2日目はやや抑え目の印象だったけど、3日目は見てると笑っちゃうくらい凄かった。ラストナンバーでは疾走感全開、ドラムセットの中で踊るような感じすらありました。

今回は「純正UK」のせいか、演奏曲はすべてUKの楽曲で、去年のようなキングクリムゾン・ナンバーの演奏は無かった。まあ3人でもあるしなあ。

去年と同じことを書くと、79年来日公演を見た自分は当時、UKにクリムゾンの幻影を求めていた。なので、むしろ昨年の「UKプロジェクト」みたいな感じで、クリムゾンの曲もやってくれる方が、自分的には良いのかな、という感じはある。もちろん今年の純正UKも、とにかく演奏自体は素晴らしくて何も言うことはないんだけど。

しかし振り返ると、エイジアが再結成活動を始めた頃、自分は「ウェットンさん、エイジアじゃなくてUKをやってくれよ」と思っていたわけだから、それが実現しただけでもファンタスティック。とにかく有り難い、有り難すぎることとして感謝しなきゃいけないね。

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2012年6月16日 (土)

英誌、野田首相を称賛

読売新聞サイトから以下にメモ。

15日発行の英誌エコノミストは野田首相に関する記事を掲載し、消費税率の引き上げを柱とする税と社会保障の一体改革が前進しつつある現状を、「過去数代の自民党出身の首相の業績を足し合わせたよりも大きな仕事を成し遂げようとしている」と高く評価。高齢化と経済縮小に苦しむ日本の再建が自分の仕事だと、首相は自覚していると指摘した。

消費税率の引き上げ法案が成立した後に、首相が解散総選挙に打って出れば、野田氏率いる民主党は敗北が濃厚だが、「氏はそんなことはどうでも良いと腹をくくっているから、力を発揮できる」とその覚悟を称賛した。

・・・政権の支持率はパッとしないが、野田佳彦首相はドジョウの底力をじわじわ発揮しつつあるようだ。要所要所で与野党のキーパースンと対話するなど地道に手続きを踏みながら、目的達成に向けて着々と進んでいる印象。派手さは無いが、手堅いというのもリーダーの実行力の現われと評価できる。首尾よく消費増税が決まった後に、永田町がどう動くかは分からないが、どういう展開が待っているとしても、政界再編まで視野に入れておけば良いまでのことだろう。字は違うが私と同じ名前のよしひこさんが、何処まで自らの信じるところを貫けるか見ものだ。

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2012年6月12日 (火)

「下町」って、どの辺?

本日付日経新聞(首都圏版)の記事から、東京・下町の歴史的変遷についてメモ。

そもそも下町に厳密な定義はなく、庶民の間に自然に使われ、定着した言葉だ。江戸東京博物館(東京・墨田)の竹内誠館長によると史料に初めて下町という言葉が表れたのは17世紀。文字通り低地という意味で、下町には町人、高台の山の手には身分の高い武士が住んでいた。 

やがて町人が武士に並ぶ力をつけると「下町」の意味に変化が起こる。文政期(19世紀)に幕府がまとめた『御府内備考』は「御城下町」の略だろうと解説。「将軍様のお膝元との思いが下町の誇りになった」(竹内館長)という。 

城下町なので範囲は狭い。江戸城の東側を西端に、東端は隅田川、南端は新橋、北端は神田川。中心には日本橋があった。一帯には大きな商家が多く、奉公人が肩を寄せ合って暮らした。人様に迷惑をかけない、困ったときはお互いさま。いわゆる「下町人情」がここから生まれた。 

明治期に入ると下町と呼ばれる範囲も広がる。当時の書物『日本名勝地誌』には「京橋、日本橋、神田、下谷、浅草の五区は俗に下町」と称するとある。江戸期の下町と同じく商業が栄え、職住近接の地だった。関東大震災で住民が墨田区や江東区に移り住むと、そこが下町と呼ばれた。戦後、古くからの下町がオフィス街化すると人がさらに東に移り、今では葛飾、荒川、足立、江戸川、そして大田の各区も下町と呼ばれるようになった。

・・・今の馬喰横山の辺りで育った僕の母親は、「葛飾は下町じゃない、場末だ」と言っていた。墨田区の小学校、中学校を出た僕も、下町と言えば、せいぜい向島、本所、深川の辺り、「川向こう」くらいまでという感じがするので、今のように東京の東側一帯が何となく「下町」と呼ばれるのはどうなのかなあ、という気はする。

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2012年6月10日 (日)

ギリシャの「民主主義」

6月6日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(ギリシャ問題と市場の動揺)からメモ。

先の見えない欧州単一通貨ユーロに、市場の動揺がますます広がっている。スペインの金融危機に加えて、ギリシャのユーロ離脱が視野に入り、市場は戦々恐々である。

ギリシャの経済規模は、欧州連合(EU)全体の2%にも満たない。この南欧の小国が、欧州のみならず、グローバル化した巨大金融市場を揺るがしている。今後、ギリシャがユーロを離脱する事態になれば、ギリシャのみならず、その周辺諸国が大混乱となることは間違いない。

ギリシャ国民の大半は、いまだユーロ圏への残留を強く望んでいる。それにもかかわらず、財政緊縮策の実施には強い拒否反応を示し、ギリシャに救済の手を差し伸べようとする欧州首脳や国際通貨基金(IMF)幹部の発言には、「内政干渉だ」と不快感をあらわにする。そしてそのたびに、グローバルな巨大市場が大きく動揺する。これが「民主主義」が意味するところなのだろうか。

・・・ギリシャといえば、民主主義発祥の地。しかし古代ギリシャの哲学者が今のギリシャを見たら、これは理性的ではない、自己制御能力の欠けた、いわば「奴隷の民主主義」だと言うんじゃないだろか。そして、そういう類の「民主主義」の弊害はギリシャに限らず、今では何処の国でも多かれ少なかれある、と言っていいんだろうな。

とにかくギリシャ再選挙まであと一週間。どういう結果になっても、選挙後の市場はそれなりに落ち着いてほしいもんだと、切に願う。

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2012年6月 3日 (日)

「草食系皇帝」フリードリヒ3世

昨日6月2日は、新宿の朝日カルチャーセンター講座「神聖ローマ帝国とハプスブルク」(皆川卓先生)の第2回を聴講。テーマはフリードリヒ3世(1415-93)。というと、長生きと息子マクシミリアンだけが取り得、みたいに言われる凡庸皇帝のイメージだけど、近年は研究が進んで評価も変わってきたという。(以下は自分のまとめ的メモ)

まず面白いと思ったのは、フリードリヒ3世本人というより、参謀役の存在。その名をエネア・シルヴィオ・ピッコローミニ(1405-64)という、詩人・古典学者にして枢機卿秘書。1442年、フリードリヒはエネア・シルヴィオに出会うと、たちまち彼の豊かな教養と巧みな弁舌の虜になり、親交を結んだ。

当時の王侯貴族は武人意識が強く、その生活は狩りや騎馬試合、そして宴会に明け暮れるまさに「体育会系」。これに対して、フリードリヒ3世の趣味は庭いじりと読書。軟弱な「文化系」というか、「草食系」そのもの(笑)。しかし、このまるで武人風ではないキャラが、教養人であるエネア・シルヴィオには好ましいと感じられたらしい。出会った翌年には、彼は教会の仕事を離れてフリードリヒの下で働き始める。皇帝の参謀役となった彼は、大きな国家戦略の絵を二つ描く。まず、教皇から直接戴冠されることにより皇帝権威を強化すること。そして、フランスの牽制を狙いとして、アラゴンと同盟関係にあるポルトガルの王女を皇帝の妃として迎えること。計画は1452年3月に実現し、戴冠式そして結婚式も共にローマで行われた。1455年、故郷イタリアに戻ったエネア・シルヴィオは、教会内でとんとん拍子に出世。3年後には教皇(ピウス2世)にまで上りつめた。

「草食系皇帝」フリードリヒ3世は、自分から戦争を仕掛けることはなかったが、それは貧乏国出身のため自分で動かせる兵力が限られていることも理由だった。なので、もっぱら皇帝の権威を高めつつ、諸侯との連携を密にすることにより、対立する敵との争いを乗り切っていった。

またフリードリヒ3世は、帝国を表すシンボルやコピーを案出し、これを広めることに腐心した。一つは「双頭の鷲」の紋章、もう一つは「ドイツ人の神聖ローマ帝国」という国号だ。「双頭の鷲」は、もともと古代ローマ皇帝の紋章だったが、フリードリヒはこれを復活させて、帝国の各都市で使うように指示した。「ドイツ人の神聖ローマ帝国」も、1452年の勅令以後、フリードリヒは必ずこの名称を使用している。これらのイメージ戦略は、帝国の一体感を高め、皇帝への忠誠心を強めるのに効果があったようだ。

フリードリヒ3世は決してカリスマ的な能力のある皇帝とは言えないけれど、帝国をまとめるための人心掌握や人脈作り、イメージ作りを地道に進めたことは、相当に評価できるだろう。結果として、以後の神聖ローマ帝国が、ハプスブルクを中心とする「連合国家」として運営されていく仕組みの基礎を作り上げた人物だった、と考えられる。

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