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2012年5月13日 (日)

教育あるいは学びについて

先日のNHK「ニッポンのジレンマ」特別編(僕らの救国の教育論)を見て、教育を論じるのは難しいものだとあらためて感じた。その難しさの拠って来たるところは、制度としての教育システムを論じる際に、各人が自分の学びの経験から出発せざるを得ないということかと思う。

制度としての教育システムには目的がある。番組の中で言われたように、「子供を社会化する」ことが教育のミッションだろう。教育は個のためか社会のためかという問いかけもあったけど、優先順位としては社会のためにあるというのは疑いない。だから教育が何かしら「訓練」の性格を帯びるのは、目的があるから当然なんだけど、その一方で、個の学びには目的は無い。強いて言えば「昨日とは違う自分になること」、でもそれも目的というよりは結果に近い。要するに学びは自由だ。

教育という言葉を使った時に、いろいろなレベルや範囲の話が混ぜこぜになる嫌いはあるので、そこは「教育」の定義を少し限定しないとまずいかなと。例えば「夢の無いヤツに教育は何ができるか」みたいな話もあったけど、制度としての教育にそこまで過大な期待はできないわけで。

「競争ではなく、協同的な学び合いの場」とか「お互いの自由を認め合って多様な生き方を可能にする」とかいうのも、まあ理想論というか抽象的な話でしかないな、と。

多様な生き方といっても、現実的には多様な職業に就ける、「おいら、どんな仕事でもできまっせ」という能力を身に付ける機会を与えるということが、教育システムに求められていることなんだろう。それ以上のこと、実際にどこまでできるのか、夢を見つけられるか(苦笑)となると、個の問題としか言いようがない。

このほか創造性やコミュニケーション能力の話も出てたけど、とりあえずコミュニケーション能力が何のために必要かと言えば、お互いの自由を前提にすると、みんなが好き勝手にやれば世の中は成り立たないわけだから、そこでお互いの間に規準や規範を作り出すために求められる、のだろう。それは問題解決能力にもつながるということで、ブレーンストーミングとか言われてたけど、まあそういうことになるのかなと。

創造性ってやつも、これもピンからキリというか、でもとりあえず各人が得意分野を見つけて自分のレベルで創造性を感じられればいいのかな、という気はする。だから、子供が自分の創造性を見つける、その手助けをする、きっかけを与えるコーディネーターとしての役割が、今の教師に求められている、というのもその通りかなと。

もうベタに言うと、いい先生に出会えればそれが一番いい。いい先生が増えればいいんだけど、しかし現実は厳しいみたいだ。そのことは、いま教職志望者が減っているという話をTBS報道特集で見て感じた。教育学部の学生さんでも一般企業に就職する人多数とか。教育の現場では学級崩壊とか怪物親とか問題が多くて、教師の負担は半端じゃ無いとか。ある学生さんの「子供が好き、だけではやっていけないと感じた」という言葉が印象的だった。

何だか状況は厳しいが、いい先生に出会えることは人生における無上の幸運だろう。突然だけど、ウィキペディアの記事からノーベル文学賞作家カミュの話を書く。

カミュの家は貧しくて、子供を高等学校に行かせる余裕は無かった。しかし小学校のルイ=ジェルマン教師は、カミュの才能を見抜いて家族を説得し、奨学金を受けてカミュは進学することができた。カミュは師の恩を生涯忘れることはなく、ノーベル賞記念講演の出版時には「ルイ=ジェルマン先生へ」との献辞を添えている。

このような美しい偶然=幸運が多くの子供たちに与えられることを願うばかりだ。

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