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2012年5月28日 (月)

オウム真理教の野望

先週末に見たNHKのオウム真理教特集番組で、教団の暴走について二つのことが指摘されていた。まず、1990年総選挙の敗北以後にオウムは凶暴化したのではなく、80年代から麻原彰晃は武装化を志向していたということ。もう一つは、地下鉄サリン事件を起こしたのは強制捜査阻止のためではなく、強制捜査の前にとにかく麻原の予言した「ハルマゲドン」状態を実現しようとしたということ。

結局のところ、事件の真相とは、麻原の妄想、資本主義と社会主義を倒して宗教の国を作るという妄想を実行に移した、ということになる。オウムの幹部たちは教祖の手足となって、その妄想を実現化する道を突き進んだ。

幹部たちは高学歴の人びとだった。自分の憶測では、彼らは単なる社会の歯車にはなりたくなかったのかも知れない。能力があるだけに、誰にもできないことをやりたかったのかも知れない。自己肥大化、一種のロマン主義の病。何にせよ、現実にサリンを製造し、散布する実行犯となった彼らの罪は、麻原と同等以上に重い。

番組中の再現ドラマで中心人物となった女性幹部がいる(事件の後に、彼女が「ここで一生を終えると思ったのに」と涙ながらに上九一色村を後にする場面で、信者になりきっていた冨樫真という役者さんは凄いなと思った)。彼女は社会に違和感を感じ、自分を変えたいと思ってオウムに入信した。その動機の切実さを疑う気にはならない。また、そういう気持ちを持つこと自体、人間の心の動きとしてはノーマルな範囲内にあるだろう。ところが、それぞれに切実な気持ちを抱えた人たちが、集団になると、アブノーマルな方向に足を踏み入れていくということが起こり得る。

神経症は個人には稀だが、国家、社会、集団にはごく当たり前のことだと、ニーチェは書いた。

人間の集団には、多かれ少なかれ原理主義的な性質がある。その性質は、出家信者という、社会との関わりを断った人々の集まりとなれば、なおさら強まる。他者を見失った集団が、指導者の妄想に支配されるのは当然の成り行きなのかも知れない。

個人の救済を目指した宗教集団で、やがて「救済」の名の下に殺人が正当化される。オウムを脱会しようとする、即ち「救済」を否定しようとする信者が殺されてしまうのは、「革命的でない」という理由により、仲間の命をリンチで奪った連合赤軍の論理と変わるところはない。オウムの妄想に近い「救済」も、最後は無謀な「暴力革命」と同じになってしまった。

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