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2012年4月14日 (土)

ニーチェの形而上学批判

ヨーロッパ精神の中核を成す形而上学を丸ごと葬り去る企てに、初めてかつ徹底的に取り組んだのは、いうまでもなくニーチェである。『現代哲学の岐路』(講談社学術文庫、1996)、木田元の話からメモ。

「19世紀後半の文化的状況、つまり文化の創造力がまったく枯渇してしまったかに見えた虚無主義的な雰囲気、ニーチェのいわゆる「心理的状態としてのニヒリズム」ですが、ニーチェには、これが近代ヨーロッパ文化形成の必然的な帰結としか思われなかった。彼の言い方に従えば、これまでヨーロッパ文化形成を導いてきた最高の諸価値、つまり形而上学的諸価値がその効力を失ったためだというんです」

「つまりこれまでは、いっさいの存在者の上に形而上学的な最高価値が厳然と支配していて、それらの存在者にそれなりの価値を与えてきた。しかるに、それら最高価値が効力を失ったために、それによって価値や意味を与えられてきたこの世界が無価値に思え、無意味に思えるようになった、というわけです」

「ニーチェが形而上学的諸価値ということで考えているのは、たとえばプラトンのイデア界とかキリスト教的人格神とか、近代の哲学者が説く理性といったものですね。「形而上学的(メタフィジカル)」というのは、言葉どおりには「超自然的(メタ・フュシス)」ということですから、こういった諸価値は、この現実の自然界を完全に超えたところにあるものとして設定され、自然界の現実の諸事物は、そのイデアの影を宿しているから、あるいは神によって創造されたものだから、あるいは理性によって認識されうるからこそ、価値があり意味があると考えられてきたわけです」

「どうしてそうした形而上学的諸価値が効力を失ったのか。ニーチェに言わせれば、そんなものはもともとなかったからだというんです」

「プラトンが、この自然界を超えたところにイデア界といった超自然的、形而上学的原理を設定し、それを参照にしながらこの自然界の個々の存在者の存在を問題にしはじめた。自然界を超えたところに形而上学的原理を設定し、それとの関係でこの自然界を見ようとする、そうした思考様式をいちおう「形而上学的思考様式」とよんでおくことにしますが、これがその後の西洋哲学の伝統となり、西洋の文化形成の基本的設計図を描くことになる。なるほど形而上学的原理として立てられるものは、そのときどきイデアであったりキリスト教の人格神であったり人間理性であったり絶対精神であったり、呼び名はさまざまに変わるわけですが、そうした思考様式そのものは、一貫してうけつがれるわけです」

「だからニーチェは、プラトン以来の西洋哲学は、ストア的道徳やキリスト教をも含めてすべて「プラトン主義」だといい、そうした思考様式によって規定された文化形成の伝統をニヒリズム、「ヨーロッパのニヒリズム」とよぶわけですね。こうして、ニヒリズムというのが、単なる虚無主義的な雰囲気とか心理的状態とか主義主張をいうのでなく、ヨーロッパの歴史を根本から規定している歴史的運動を指すことになるわけです」

・・・やはり、ニーチェの形而上学批判はストレートに響くしインパクトも強い。その後の形而上学批判、例えばハイデガーやデリダなどはテクニカルというか、まず彼ら特有の用語や考え方の筋道に馴染まないと、どうにも分かりづらいという印象がある。

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