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2012年4月13日 (金)

ヘーゲル、絶対的理性の完成

近代的理性は、デカルトからカントを経て、ヘーゲルに至ってその頂点に達する。『現代哲学の岐路』(講談社学術文庫、1996)、木田元の話からメモ。

「カントの場合、こういうことだろうと思います。つまり、人間の理性的認識能力と世界の理性的な存在構造との対応関係は、17世紀では神的理性によって媒介されていたわけですから、そこに対応関係があっても、いっこうにおかしくなかったわけです。ところが18世紀になるとそういう神学的な背景をいっさい切りすててしまいます。そうなってくると、この対応関係を保証してくれるものが何もなくなってくる。つまり、世界というものが、人間の理性的な認識能力によって認識されうるような存在構造をもっているという保証もないし、人間の理性的な認識能力がそれをうまく認識できるという保証もない。しかしそうした媒介者なしに、とにかくなんとか、この対応関係をとりつけようとしたのが、カントの『純粋理性批判』の仕事だったと思うんです」

「カントの場合、問題になるのはなんといっても自然界ですよね。ところが、自然界となると、これは人間理性が全面的につくり出すなんてことは考えてもむりな話なんです。そのため、人間理性が有限的なものだと考えられたわけです」

「ところがヘーゲルになるとね、世界というものが、カントのように自然的な世界としてではなしに、ロマン主義を媒介にして、歴史的な世界としてとらえられるようになった。歴史的な世界ということになれば、そこで問題になるのは、社会構造であるとか国家機構であるとか法体系であるとか経済組織であるとか宗教的な儀礼、芸術様式とかいったようなものなんだから、これはね、人間が全部つくったんだと言い出しても通るところがあるわけです」

「しかもね、カントの場合、問題はあくまで認識の場面にかぎられていたわけなんだけれども、ヘーゲルになってくると、そういう歴史的な世界をつくり出してきた人間の活動全部が問題になってくる。ヘーゲルはそれを、アダム・スミスから借りてきた「労働」って概念でとらえるわけです。そしてそういう労働を通じての主観と客観との相互媒介の関係を弁証法と考え、歴史の展開をそういう弁証法的な過程として見るようになってくるわけです」

「ヘーゲルまで来ると、彼も言うように「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」ということで、現実と理性の対応関係が完全に成り立つことになるわけなんです。僕にはヘーゲルのこの命題が、デカルトの理性主義にあったあの循環――理性的認識の明確な対象になりうるものだけが存在者として認められるのであり、したがって存在するかぎりのすべてのものは理性によってくまなく認識されうるという、あの循環――の最終的な表明のような気がしてならないんです」

「少し図式的に言ってみれば、デカルトのところで、人間理性に超越論的主観性となる可能性が与えられた。というのも、ここではまだ人間理性は、神的理性のバック・アップなしには何もできないからです。それがカントのもとで、神的理性の後見なしに認識論的主観性の役割をはたすことになる。が、まだその権能には限界があり、あくまで有限なものでしかない。それがヘーゲルまできてはじめてその有限性を脱し、歴史的世界を創造する絶対的な主観性となったわけです」

・・・ヘーゲルにおいて、理性は世界のすべてを認識できるし、世界のすべては理性の活動すなわち自己展開となる。こうしてギリシャ的ロゴス、キリスト教的神学、近代的理性を内実とする西洋形而上学の伝統は完成を見たのだが、ほぼ同時に形而上学的伝統への批判作業も開始される。ヘーゲル後は、絶対化された理性の相対化を図る、いわゆる現代思想の時代に入っていく。

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