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2012年4月12日 (木)

近代的理性の神学的背景

近頃、哲学を齧り直しているけど、それはまた、若い頃に読んだ哲学の本を読み直すことにもつながる。昔の本で何となく記憶に残っていた中公新書『理性の運命』、木田元と生松敬三の対談本を、90年代の復刊本(講談社学術文庫版、書名は『現代哲学の岐路』)で再読した。とりあえず理性に係わる話を以下にメモする。

木田:西洋人にとっては、理性というのは、ある絶対的な真理把握の能力を意味しているらしい。しかも、それだけではなく、その理性によって把握される存在の絶対的な秩序をも意味しているらしい。

生松:たとえばロゴス、これはヘレニズム期のストア派の場合だったら宇宙全体を貫通している理法のことなんで、人間のロゴスはこれを分有する、あるいはそれに関与するんだと考えられていたわけです。こうした考え方は中世のスコラ哲学を通じて、基本的には近代にまで流れ込んでいるわけでしょう。

木田:スコラの場合はキリスト教が背景になるわけだけど、大いなる理性としての神が世界を創造したんだから、世界は神の理性を分有している。そして人間の理性も、神が自分の理性に似せて造ったものなので、人間の理性と世界の理性的法則との間にはある対応関係がある、と考えられていた。だからこそ人間の理性によって世界の理性的な存在構造が認識可能なのだし、世界の存在構造というのは、とにかく人間の理性に合ったようにできているんだと、こういう考えが近代初頭の理性主義ないし合理主義の根本前提になっているわけですね。

生松:神の造り給うた自然を支配しているロゴス、これを数学ないし数学的な方法によってとらえることができる。自然のなかの法則性を明らかにすることが、神の栄光を讃えることだ。近代の自然科学が成立してくる背景には、依然として神学的な世界観があって、そういうなかから自然科学も出てきたという色彩は非常に濃厚です。

木田:どうもそういう神学的背景を抜きにしては、近代の理性主義の成立を考えることはできませんね。デカルトの場合には、例の「方法的懐疑」によって、思考しつつある〈われ〉だけを確実に存在するものとみなして、その確実性を根拠に、その〈われ〉が確実に認識できるものだけを真に「存在するもの」として認めようとしたわけです。思考しつつあるその〈われ〉なるものは、理性としての〈われ〉なんです。なぜ、その理性としての〈われ〉が確実に認識しうるものだけが、真に存在するものとみなされうるかといえば、その〈われ〉は神の理性のミニアチュアなのだから、もともと世界の理性的構造を認識する可能性を保証されているからだ、というわけです。人間理性が確実に認識しうるものだけが存在者とみなされうる。したがって、存在するかぎりのすべてのものは、人間理性によってそれこそ合理的に認識されうる。これは完全に循環論法なんですが、この循環の上に17世紀の理性主義は成り立っていたんじゃないか。そして、その循環を支えているのは、神なんですね。

・・・キリスト教という入れ物にギリシャ的ロゴスを満たして、「我思うゆえに我在り」とオマジナイを唱えたら、あら不思議、近代的理性ができちゃった。って感じ。

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