なぜいま「キリスト教」か
昨日19日付日経新聞に講談社の広告が出ていて、『ふしぎなキリスト教』30万部突破!!とある。30万部・・・結構な数字だ。なぜいま、日本人はキリスト教を知りたいと感じるのか?
不特定多数にアンケートをとるわけにもいかないので、自分の理由を述べるしかない。(苦笑)
キリスト教の「解説本」が売れるという背景は、現代日本人が、いまなぜ我々はこのようにあるのか?と自問した時に、その答えを日本的伝統の中に求めるよりは、西洋の歴史、その基礎にあるキリスト教の理解が必要だと、一般人のレベルで意識されるようになったということだろう、たぶん。
なぜそのように意識されるのかと言えば、一番単純に考えて、明治維新から相当な時間が過ぎた、つまり、日本は充分に西欧近代化されたから。何しろ現代日本人は余りに西欧化されているので、もはや日本の伝統にそれほどリアリティを感じていないと思われる。例えば、あらためて「和」のこころを知るというのか、日本的慣習や伝統の意味を、テレビの情報番組等で学び直さないと了解できなかったりするし。もちろん西欧に完全に同化したという話ではないにしても、衣食住の生活習慣が隅々まで西欧化されて、現実に資本主義や主権国家、近代科学をベースとした文明の中に生きる現代日本人が、その文明を生み出したキリスト教(的思考)に関心を向けるのは当然の筋道に思われる。言い換えると、明治以来「和魂洋才」で突っ走り、西洋文明を取り込むことにあくせくしていた日本人がここにきてようやく、洋才の根っこにある「洋魂」がまともに気になってきた、ということなのかなと思う。
明治以来の近代化の歴史を振り返れば、近代と伝統、都市と農村、家制度と個人主義、戦争と革命、西洋と東洋など、様々な価値観の相克が繰り返されてきた。近代化の進む社会の中を生きる人間の苦悩は、いわゆる近代文学の作品表現に結実した。戦争の惨禍を経て戦後の高度成長を達成した日本は、「明治100年」の1960年代終わりには、近代化をひとまず完成した。
その後、70年代の石油ショックと為替の変動相場制移行を経て、80年代の「ポストモダン」と「バブル」の時代には、日本は西欧近代を凌駕したとも言われた。
しかし90年代に突入すると共にバブルは崩壊、冷戦終結と共にグローバリゼーションの嵐が吹き荒れる。しかし「ポストモダン」の後に来たのが「グローバル近代」だったというのは、何だか妙な感じ。
それにしても、今や良くも悪くも充分に近代西欧化した日本人は、日本の伝統も西洋文化の基礎も、どちらも実感に乏しいまま頭で理解しなければならないという、微妙な立ち位置にあるなあという気もする。
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