皇帝フリードリヒ二世の死の定め
以下は、『皇帝フリードリヒ二世』(カントーロヴィチ・著、小林公・訳、中央公論新社)より。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世は、フィレンツェに立ち寄ることは避けていた。というのは占星術師たちの予言によると、彼は「花の下で」(sub flore)死ぬ定めになっており、この託宣はフィレンツェ(ラテン名 Florentina)のことを言っていると思われたからである。
1250年12月の最初の何日かを、皇帝はフォッジャで過ごした。狩りの最中に皇帝は激しい発熱に襲われ、普段は立ち寄ったことのないフィオレンティーノ城に避難した。それは赤痢だった。これまで皇帝が注意もせずに軽く考えていた赤痢が、燃えるように熱い腸炎を惹き起こしたのである。皇帝はこの病で、自分がまもなく死ぬことをただちに覚った。
フリードリヒ二世は、もはやフィオレンティーノ城を去ることはなかった。かくして彼は「花の下で」(sub flore)死ぬという託宣が、この城で実現した。花(flos)は、フリードリヒがつねに避けていたと言われるフィレンツェではなかったわけである
フリードリヒは56歳になる直前の1250年12月13日に息を引き取った。
・・・占星術師の予言どおり、「花の下で」皇帝フリードリヒ二世は死んだ。運命論者ではない自分も、不可思議な気持ちにさせられるエピソードではある。
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